中野達也(駒沢女子大学 教授)
「中野先生、近々原稿お願いしますね。ELEC賞受賞から10年たったので」
研修担当のCさんからそう声をかけられたのは、今年8月、ELEC夏期英語教育研修会で講師を務めた折でした。
「あれから10年ですかぁ」
私が書いた論文は「速読力向上を目指した指導〜音韻処理を自動化するための方策〜」。英文を速く正確に読み取る力(速読力)を身につけるためには、単語を瞬時に正確に音声化することが必要であると考え、当時担当していた生徒たちに対して行った指導とその成果をまとめたものでした。
その後、この論文を業績の一つとしていくつもの大学に応募し、最終的に駒沢女子大学に職を得ることになりました。それが9年前のことです。生徒たちと一緒に都立高校の教員を卒業し、現在に至ります。大学に移ってからはセミナー講師のみならず、さまざまな学校の研修会講師に呼ばれることが増えました。また、2022年度にはNHKラジオ『中学生の基礎英語 レベル2』の講師を務めさせていただきました。ELEC賞を受賞したことは、間違いなく私の人生が変わるきっかけになりました。
実は、受賞を遡ること数年前。私は一度ELEC賞に応募し、落選しています。中高一貫校で新学年の担任兼学年主任を務め始めた頃でした。中学受験を潜り抜けてきた生徒たちではありましたが、受験科目にない英語に関してはゼロからのスタートでした。小学校では総合的な学習の時間にわずかばかり英語を味わった程度で、中学校での通塾率も高くはありませんでした。まず、アルファベットの歌を一緒に歌うことから始めました。入学から1ヶ月ほど経ったある日のこと、一人の女子生徒が授業の片付けをしている私のところにやってきて、「先生、私は英語が嫌いです」と言って自席に戻って行ったのです。この言葉は衝撃的でした。大学卒業後すぐに中学で教え始めた私にとって、英語の授業は生徒たちが期待に胸を膨らませて目を輝かせて取り組む科目だという認識でしたから、きついパンチを喰らったような気持ちになりました。現状把握のため「英語が好きか嫌いか」学年全員にアンケートをとったところ、なんと24%から嫌いだという回答を得たのです。これをきっかけに私は授業改善に臨みました。英語が好きになるためには、楽しいことと、わかったという達成感を持たせることが大切だと考えてさまざまな取り組みをしました。その一つとして教科書を徹底的に音読し、暗唱し、そして見ないで書けるようになる(暗写)ように指導しました。そのような実践をまとめたものが1回目の論文でした。落選したとは言え、その論文のおかげで、ELEC教員研修からお声がかかり、その後何度も講師を務めさせていただくことになりました。また、アルクやOxford出版社から講師の依頼をされるようになったのもその頃です。ある意味落選したことも私の人生に大きな変化をもたらしました。
数年後のELEC研修会の時のことです。その時もCさんに声をかけられました。
「先生、もう一度ELEC賞に挑戦してみませんか?」
その言葉に背中を押されて書いた論文が、結果的にELEC賞を頂戴することになったのです。そういう意味では、当落に関わらずELEC賞に挑戦したことで大きな変化が生まれ、今の私があると言っても過言ではありません。ELEC賞を機に私の人生は「変わった」と言えます。
一方で、10年経ってもまったく「変わらないこと」もあります。それは授業と学生(生徒)を大切に思う気持ちです。学生からはよく、「大学の先生っぽくないですね」と言われます。彼女たちには、大学の先生は大きな教室でマイクを持って、パソコンやノートを見ながら、学生たちに目を向けることもなく、ひたすら90分間話し続ける人のようです。そう言えば、高校で教えていた時にも「高校の先生っぽくないですね」と言われたことが何度かありました。こういう時は必ず枕詞として「いい意味で」を伴います。
少し昔話をさせてください。私の教歴は中学校から始まります。大学卒業後、故郷に戻るべく、長野県の中学教員採用試験を受けました。一次試験は合格したものの二次試験では不合格。その後、ある中学校で非常勤講師を務めました。持ち時間は1年生2クラス、合計6コマだけでしたが、管理職からは「ここで勉強すれば来年はきっと合格できるから」と叱咤激励されて、朝6時頃出勤し夜は時に10時過ぎまで会議に参加しました。研究校でしたから、教科会、学年会、職員会、研究職員会など日替わりで会議がありました。部活や宿泊行事にも参加しました。今ならブラックを通り越して漆黒の勤務形態だったと思います。でも、そんな言葉はなかったし、それが当たり前だとも思っていました。事実、そこで学んだ「個に寄り添う授業や指導」は私の教育の原点となりました。翌年、長野県の教員採用試験に合格した私は、松本市立中学校で担任をすることになりました。そこで一人の生徒に出会います。仮にK君としておきましょう。彼はとても優しく思いやりのある生徒でした。ところが勉強は苦手です。ある時お母さんと二者面談をすることになりました。まだ24歳の私に向かって、「先生、うちの子、知能指数が低いんです。小学校の面接のとき、資料の数字が目に入ってしまったんです・・・」と言いながらお母さんは涙を流されました。私はどうしていいかわからなくなりました。それでも、「個に寄り添うにはどうしたらいいか」を懸命に考え、彼に「秘書」という重要な役割を与えました。クラスへの連絡係を頼んだのです。彼はそれを見事にやり切りました。その代わり、私は彼を日曜日に学校に呼んで、英語の特別指導を行いました。K君も今では50歳を過ぎているはずです。今でも時々彼のことを思い出します。その後、思うところがあって、私は東京都の教員採用試験を受け直し、都立高校教諭として30年ほど過ごしました。数校を経験したのち、オーストラリアでの1年間の交換教員生活を経て、不登校が多く集まる学校や、中高一貫校で教鞭をとりました。いわゆる受験指導をしっかりしたのは都立学校最後の11年間だけで、それまでは生徒指導で生徒を追いかけまわす日々でした。でも、K君と出会ったことで、私はどんな生徒とも向かい合うことができるようになったし、さまざまな学校を経験したことで、受験指導であっても、コミュニケーション重視の授業をしてこられたと思っています。
このように、中学を経験してからの高校教師、高校を経験してからの大学教員という、生徒や学生の成長過程に沿って教歴を重ねてきたからこそ、対面する生徒や学生のそれまでを容易に想像することができ、それに応じた指導ができるようになったことが「(いい意味で)〇〇らしくない」と言われる所以でしょう。私はとても貴重な体験をさせてもらいました。このように、ELEC賞受賞後も変わらないのは、教員としての信条、つまり生徒や学生との対話を大切にし、授業中も一方通行にならない双方向のやり取りで進めていくことです。
話は少し変わります。私はつくづく幸せ者だと思うことがあります。それは、過去に関わった学校の生徒たち、大学の卒業生たちの多くと今でも連絡が取り合えることです。たった1年間しか関わらなかった非常勤時代も、生徒たちとの関わりが濃かった分、当時のことはしっかり覚えています。松本の中学校も、高校の卒業生たちとのことも。そしてとても嬉しいのは、謹慎指導の連続で結局卒業できなかった生徒たちとも繋がっていることです。オーストラリアで過ごしたのはもはや四半世紀も前のことになりますが、今ではお父さんお母さんになった生徒たちとSNS上で会うことができます。ELEC賞執筆当時、私の研究に協力してくれた生徒たちは高校を卒業し、大学に進学し、社会人5年目になっています。彼らと会う機会は特に多く、お酒も飲めるようになった今、教え子というよりはよき話し相手になっています。その時必ず話にのぼるのは当時の私の英語指導や生活指導です。最初に非常勤をした中学校の卒業生と再会した時には、「先生から教科書を暗誦するように言われて、今でもあのレッスン言えますよ」と言われたり、「『音読・暗誦・暗写』は辛かったけど、結局一番力がつきました。オーストラリアに留学した時も、単語を一部変えるだけで英文が作れて、ホストファミリーから英語が上手だって褒められました」などと言ってもらえると、自分がやってきたことは間違ってはいなかったかもしれないと、ちょっと照れくさいと同時に嬉しくなります。
さて、私は今大学で教職課程に関わっています。数年前、英語の授業を担当しなくなった時、英語教師としてのアイデンティティーが消滅したようで複雑な思いがしたものですが、今は自分の役割に生きがいを感じています。本学は小規模校ですから、教職課程の学生も多くはありません。英語だけでなく国語の免許を取得予定の学生とも日々共に過ごしています。1年生では「教職入門」、3年生では「英語科教育法」と「教育実習指導」、そして4年生では「教育実習」と「教職実践演習」という授業を担当しています。授業のない2年生でも、オリエンテーションや面談などをしているので、1年生から4年間彼女たちの成長を目の当たりにしています。最初は教育がなんなのかもわからない学生たちが、介護等体験や教育実習を経験する中で、教師としての役割、教職のあり方についてしっかりとした考えが持てるようになるまでの成長は目を見張ります。
このように、私は今大学の教職課程で後進を育てることに注力しています。私自身の経験を語ることも度々です。中高の現場を離れ大学に移り、将来の後輩の指導に当たることができるのは、ELEC賞受賞が転機となったことは間違いありません。当落に関わらず、ELEC賞を活用して実践をまとめ振り返ることは、自身の授業と可能性を一歩先に進めるチャンスにもなるのではないかと私は考えています。
(なかの たつや)