デジタル版『英語展望』案内 ー新しい時代の新しい英語教育

                           寺村繁(元ELEC評議員・元教育事業部長)

日本の英語教育は江戸時代、1808年のフェートン号事件にさかのぼるとされる(伊村元道『日本の英語教育200年』2003、大修館書店)。本格的な外国語教育は明治時代に始まり、欧米に追いつくことを目標に英語、ドイツ語、フランス語を選択する。近代国家としての法体系、富国強兵のための科学技術、さらには文化や芸術など学ぶべきことは多く、短期間に結果を出すことが求められた。欧米文化の移入のために外国語の能力が必要であり、欧米の知的成果を日本語に翻訳することで日本社会で具体的に生かすことが可能になる。この方針のもとに日本は近代化に成功するが、外国語教育の観点からは問題がなかったわけではない。外国語教育の目的が欧米の文書の日本語への翻訳ということなら、重要なのは結果であり国家機関として翻訳局を作ることが効率的となる。また、ことばは文化や思想をともない、そのことにこそ外国語教育の意味があるわけだが、逆の視点からは外国語教育は軽佻浮薄な欧米崇拝をもたらすとも考えられる。大正から昭和の時代になり国家主義・排外主義の風潮が高まると、外国語教育廃止論も勢いを得ることになり、英語は敵性語・敵国語とみなされる時代になる。

第二次世界大戦後の世界は大きく変わり、日本の外国語教育も新しい時代を迎える。新たに中学3年間が義務教育となり、大多数の中学校で英語が教えられるようになる。学習者が大幅に増えただけでなく、学習目的も聞き・話す力も重視され、4技能の習得、ことばの教育としての英語教育をめざすことになる。

新しい時代の英語教育を主導し推進することを目的に、ELECは1956年に創設される。英語教員の英語を話す力の向上と教授法理論の理解、実際的な指導技術を高める研修会を開設し、並行して中学校用英語教科書New Approach to Englishを作成する。そしてELECがめざすことと活動の実際を広く知らせるために、機関誌ELEC Bulletinを1961年に創刊する。その後、より広く英語教育の課題を取り上げ、1970年春号(No. 29)から『英語展望』と改称する。

新しい英語教育の理念とその言語学的背景

ELEC設立に先立って戦前から国際関係の仕事に従事してきた人たちが、国際文化交流の拠点として1952年に国際文化会館を設立している。そこで話題になったのが国際交流の前提となる日本人の英語力不足。使える英語力を育てる新しい英語教育の体制作りが急務ということで意見が一致し、ELECが創設される。1960年代前半のELEC Bulletinの特徴の一つは、ELEC創設に参集した中心メンバーによる国際理解・国際交流の視点からの英語教育論といえる。国際機関、ジャーナリズムや国際ビジネスの現場での英語使用の実際、世界に向かって活動する人材育成の必要性、新しい英語教育に取り組む人たちの抱負など議論百出、大きな可能性が様々な視点から述べられている。

国際理解とともにELECの理念と活動の背景には、20世紀アメリカ言語学の発展と言語学のパラダイム・シフトがある。それまでのヨーロッパの言語学は、いわゆるインド・ヨーロッパ語の系統の言葉を対象にした文献主義、歴主義的研究だったといえる。それに対して20世紀アメリカの言語研究は全く新しい地平を提示する。ことばとは何か? すべての人が話し、使い、ことば無しに人間社会と人々の生活は成り立たない。そして異文化理解の可能性を前提に、音声を手掛かりに実証的な方法で個別の言語の構造をとらえ、同時に普遍的なことばの本質を探り、科学・サイエンスとしての言語研究をめざす。この新しい言語学の発展により、言語学、異文化理解、ことばの教育、外国語教授法研究が問題意識を共有することになり、新しい英語教育の時代が始まる。

アメリカ構造言語学の代表的な学者の一人であるテキサス大学のArchibald Hill教授は、ELECの教員研修会に積極的に参画し、アメリカ人講師の指導と助言、教材作成などを行う。加えて受講者である日本人英語教師に向けた連続講義を行い、ELEC BulletinのNo. 1からNo. 5までに連載されている。その内容は、アメリカ言語学の基本の解説、ことばとことばの教育、言語学と外国語教授法、さらには文学作品の扱いまで、英語教育の基本的理念と全体像を明快に示している。

またアメリカ構造言語学の成果である音声学については、英語で話し合う際の発音の困難性や英語教育における発音指導の重要性を出発点に、No. 3からNo. 6まで4回連続で牧野勤教授の「英語音素論入門」が掲載されている。

オーラル・アプローチ:新しい英語教育の指導理論と実際

第二次世界大戦後、外国語としての英語教育が広く世界各地で行われるようになる。教えられる英語はイギリス英語に代わってアメリカ英語が大勢となり、教授法は米国ミシガン大学フリーズ教授のオーラル・アプローチが最有力。

後にELECの中心的活動を担うことになる山家保(やんべ たもつ、1915-2002)先生は1951年にミシガン大学に留学し、フリーズ教授のもとで新しい言語学の精髄を学ぶ。帰国後は宮城県教育委員会指導主事として県下の教師に新しい英語教育の実際を指導する。全国各地からの研究授業参観の先生方は、それまでの文法訳読方式の授業とは全く異質な授業に新鮮な衝撃を受ける。創刊以来のELEC Bulletinはほぼ毎号にわたって山家(やんべ)先生による新しい教授法と指導技術の解説を掲載している。それらの主張は結論的にはその後に英語教育・英語授業の常識となり、今日では新鮮とはいえないものも少なくないかも知れない。それでもフリーズ教授直伝の教授法、山家先生の創意工夫を加えた指導技術の形成過程が詳説されていて、英語教育に取り組む姿勢と指導技術を創出するプロセスを知ることができる。。

なお太田朗教授の「新しい言語観と外国語教育」(No. 6)は、アメリカ言語学が提示したことばへの新しい視点と知見、それに基づく英語教育のあり方を簡潔明瞭に述べている。

とにもかくにも新しい英語教育ということで英語の先生方も大変。戸惑いや疑問も数多くあり、全国の先生方からELEC Bulletinに質問が寄せられる。回答に当たるのは、後に英語教育界の大御所となる若林俊輔先生や大友賢二先生を含むELECの若手研究員。質問といっても他人事ではなく、自分自身も疑問に思ったことも多く、ていねいに答えてオーラル・アプローチへの理解と信頼を広げる。

オーラル・アプローチそしてアメリカ構造言語学の背景には、実証主義とともに実用主義・プラグマティズムの考え方、あるいは知的デモクラシーともいうべき思想的基盤がある。英語教育も主権在民ならぬ学習者中心主義、大事なのは生徒の変容であり英語力の向上。よりよい英語教育のためには個々の先生方の名人芸や職人技よりも英語教師全体の指導力の水準向上をめざし、標準的な指導手順と使いやすい指導テクニックを開発する。1965年に新装なったELEC会館7階講堂において第1回ELEC同友会英語教育研究大会が開催される。大会のハイライトはELEC研究協力校の茨城県水海道中学校3年生、荒井照江教諭指導の実演授業。新しい英語教育が教室現場で具現化された一つの理想形として伝説化される。理想形といっても誰にでもできそうな無理のない授業で、自然な流れの中で生徒を自発的発話に導く組み立て。このような授業を日々積み重ねることで生徒の英語力が着実に伸びることを実感させる。ELECの作成したNew Approach to English使用の授業の教案はELEC BulletinNo. 17に掲載されている。また荒井照江教諭は「私の英語教師としての歩み」(No. 14)で自身ついて語っている。

オーラル・アプローチをどうとらえるか?

文法訳読方式を超える英語教授法として、オーラル・アプローチに先立ち1922年にH. E. パーマーが来日し、翌年に英語教授研究所(現在の語学教育研究所:語研)が開設され、オーラル・メソッドを提唱している。その理論的前提はフィエーターの音声学、ソシュールの言語学ほかヨーロッパの心理学、教育学を援用している。オーラル・アプローチはアメリカ構造言語学を基盤としているので理論的背景は異質といえるが、教授法・指導手順の具体的方法は表面的にかなり似通ったものになっている。パーマーの教授法に通じている人からは、オーラル・アプローチは少しも新しい教授法ではない、私たちはすでに大正時代からやっていることですから。フリーズはパーマーの著作を読んで焼き直しただけではないのか? こんな本家争いのような議論もあった。それはともかくとして、パーマーのオーラル・メソッドとフリーズのオーラル・アプローチは、英語教育の理論と実践において群を抜いて大きな仕事といえる。山家先生の基本的な考えは「Palmerの予言とEclectic Principle」(No. 16)で述べられている。

それまでにもオーラル・メソッドだけでなく、正しい発音を指導し、基本の習熟を徹底し、表現能力を伸ばす授業を進めてきた英語教師も少なからずいた。そういう先生方にとってオーラル・アプローチはスケールの大きい強力な援軍として迎えられる。その一人である石橋幸太郎教授の姿勢は、オーラル・アプローチを完成品として絶対視する必要はないというもの。生徒がいて授業があり、そのためにオーラル・アプローチをどう取り入れ、活用するかが大事である。そのことを「英語教育の曲がり角に思う」(No. 6)、「日本の英語教育に望むこと 自主性の確立を望む」(No. 13)、「ことばの『ゆれ』と『ずれ』」(No. 16)で述べている。

オーラル・アプローチの背景にはアメリカ流の知的デモクラシーがあると言われている。それは伝統的なエリート主義とは対極的な理念だが、他方で画一主義、大量生産方式につながる傾向は否定できない。岡倉由三郎を受け継いで英国流の文化・伝統・人格形成を模範とし、手作りの教育を理想にしてきた福原麟太郎博士は「日本の英語教育に望むこと 誠心誠意」(No. 13)でオーラル・アプローチに対する違和感を表明している。

服部四郎博士は現地調査を重視し、アメリカ構造言語学と実証主義的研究方法を共有し、また英語教育改革の必要性からELECの活動に参画する。ただし、ことばは音と意味の結合という基本的立場から、言語学と外国語教育のいずれにおいても「意味」の重要性を主張している。

オーラル・アプローチの基本は文型練習で、それに対して無内容な文をオウムのように繰り返すのは良くない、という批判があった。そして文型練習というのはオーラル・アプローチだけのものではなく、あるいはその影響のもとに当時の世界の外国語教育の常識でもあった。第二次世界大戦後に英語教育が広く行われるようになったが、それはアメリカ合衆国とソビエト連邦が対立する冷戦構造における、いわゆる自由主義陣営のことであった。ソ連の影響下にあった共産圏ではロシア語が国際共通語であり、そのロシア語教育も重厚な文型練習が主流であった。

それはともかくとして、服部博士は文型練習・ドリルの有効性を確認したうえで、学習意欲を低下させないためにも「意味」を導入することを「ドリルについて」(No. 12)でていねいに論じている。また服部博士はヨーロッパとアジアの諸言語に精通し、多様な外国語、そして学習者としての視点を持ち、オーラル・アプローチ、アメリカ構造言語学、さらには欧米の外国語教授法研究を超える広い視野を持っているともいえる。その立場から以下の論文を執筆している。「英語教育の改善について」(No. 11)、「日本の英語教育に望むこと わが国における英語教育の改革」(No. 13)、「英語の学習について」(No. 17)

津田梅子の女子英学塾、フリーズ先生一家の夏休み

研究社の『新和英大辞典』は和英辞書の決定版として英語学習者・研究者に愛用されて版を重ねている。『英語青年』誌は日本人の英語学習・研究の水準を示す専門誌として長く読み継がれている。英字新聞の代表といえるThe Japan Timesは世界に向けて日本の主張と活動を発信してきている。福原麟太郎「ある英学者」(No. 5)は、これらの事業を始めた武信由太郎を取り上げ、英語学習の目的と習得後の活動、社会的貢献のあり方の一端を示している。

幼少期にアメリカに留学した津田梅子は、質素な生活と勤勉を尊ぶプロテスタンティズムの知的環境で育つ。帰国して直面した日本の状況は、女性に課せられた多くの制約。日本女性の地位向上のために自分にできることは何か? 自分がすべきことは何か? それは自身がアメリカで修得した知識と教養そして自立心。それらを教える女子英学塾を1900年に設立する。粕谷よし「津田梅子先生のこと」(No. 5)は、津田梅子から直接指導を受け、卒業後は塾の運営にかかわることになる筆者が、津田梅子の人となり、そして自身の信条にもなる女子英学塾建学の理念を述べている。

フリーズ家はカナダの湖に島を所有し、そこに別荘を持っている。日本の英語英文学界の重鎮である中島文雄教授はELEC創設以来親しい関係にあり、1960年の夏にフリーズ家の別荘に招かれる。湖に浮かぶ島なので電気も水道もなく、プロパン・ガスとランプの生活。電話も通じないのでフリーズ先生は邪魔されることなく一日中著作に専念できる環境。フリーズ夫人は釣りが好きで、中島教授も誘われてモーター・ボートで湖に出る。ある日のこと夫人が誤って釣りの道具を湖に落とすと、同行の息子のピーター・フリーズ君は別荘に帰って潜水スーツの重装備。圧縮空気ボンベを背負って湖の底に潜り、無事釣り道具を持ち帰る。ピーター君はハリス教授のもとフィラデルフィア大学で言語学専攻の大学生。夜になると話題のチョムスキー『文法の構造』(Syntactic structures)に対する学生たちの反応を紹介するなど、アグネス夫人、中島教授と話がはずむ。それらの日々を中島教授は「フリーズ島の夏」(No. 2)で語っている。

フリーズ教授は1967年12月に急逝する。ELEC Bulletinは翌年の3月号(No. 23)で特集「フリーズ博士をしのぶ」を組み、ELEC関係者によるフリーズの活動と業績に対する感謝と賛辞、そして人となりを語る思い出を載せる。フリーズを語ることは、フリーズに何を求め、フリーズから何を得たかを語ることでもあり、フリーズの鏡に映った自画像ともいえる。その意味で、ELEC創設から10年余りの総括とさらなる発展への決意を示唆している。

                                                   (てらむら しげる)