2020年は新型コロナウィルス感染拡大で世界的規模で経済活動や人の往来が制限される年となり、「グローバル化に対応する人材育成」の進展は大きく影響を受けました。これから新しい教育の仕組みが求められている中で、日本の英語教育はどのように対応していくべきか、英語教育や国際舞台でご活躍されている4名の専門家の皆さまにお集まりいただき、ELEC英語研修所で座談会を開催いたしました。
左から:
渡部良典(上智大学大学院言語科学研究科教授)
佐藤恭仁彦(独立行政法人国際協力機構【JICA】関西センター長)
田中慎也(元日本言語政策学会会長:司会)
寺内一(高千穂大学学長・JACET会長)
はじめに
田中:本日はお忙しい中をお集り頂き有難うございます。
座長を務めます田中慎也と申します。以前JACET(大学英語教育学会)の代表幹事や、日本言語政策学会会長、日本ESP協会会長等を務めました経験から、本日は座長を務めせていただくことになりました。どうぞよろしくお願いたします。
この座談会では、グローバル人材育成と英語教育との関連をどう考えるか、日本の未来を明るくするディスカッションができたらとの思いで座談会を進めたいと思います。
まず初めに、「日本人が身に付けるべきグローバルコミュニケーション能力」とは一体何か、それから日本の言語政策の現状とグローバル化に対応した改革がどのように方向づけられてきているのか、グローバルコミュニケーションの育成そのものがどういう意味をもつのか、あるいはコロナ禍を見据えた言語教育の未来など、先生方のご経験や問題点を含めて自由にお話しいただけたらと思います。まずは先生方の自己紹介からお願いします。
寺内:寺内一と申します。高千穂大学で学長を務めており、英語教育では大学英語教育学会(JACET)の会長を務めております。私はもともと慶應義塾大学法学部で民法を専攻していまして、卒業してからイギリスのウォーリック大学に留学し、ESP (English for Specific Purposes) で学位を取って日本に帰国したという経緯がございます。よろしくお願いします。
田中:つぎに佐藤先生お願いします。
佐藤:佐藤恭仁彦(くにひこ)と申します。現在、独立行政法人国際協力機構(JICA)の関西センターの所長を務めています。私自身、大学まで海外旅行もしたことがなく、日本の英語教育のみ受けてきたわけですが、大学を卒業してまもなく、ハーバード大学ケネディースクール(公共政策大学院)に留学し、その後はずっと国際型の仕事に携わっています。今日はよろしくお願いします。
田中:どうもありがとうございます。では渡部先生お願いします。
渡部:渡部良典と申します。所属は上智大学の言語科学研究科、専門分野は外国語の教育評価です。日本言語テスト学会では会長を務めております。現在、文部科学省の「大学入試のあり方に関する検討委員会」で委員を拝命しておりますが、入学試験は英国ランカスター大学で取得した博士号のテーマとして以来関心を持ち続けています。よろしくお願いいたします。
「グローバル化」という言葉の捉え方
田中:先生方、それではこれから本題に入りたいと思います。
今日の座談会テーマにあります「グローバル人材」という意味ですが、文部科学省の「グローバル人材育成推進会議中間まとめ」というものがありまして、グローバル人材の定義として、グローバル人材の概念の要素の一が「語学力・コミュニケーション能力」要素の二が「主体性・積極性・チャレンジ精神・協調性・柔軟性・責任感・使命感」要素の三が「異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティ」などが挙げられています。先生方のご専門と結び付けて今日は皆さんにお話しいただこうかと思っていますが、まずは渡部先生から切り口として最初にお話をしていただけますか。
渡部:私が「グローバル化」という言葉を初めて耳にしたのは40年ほど前のことでした。横浜にある山手カトリック教会で浜尾司教様が説教の中で「これからグローバルという考え方が必要になる」ということを仰っていまして、その時は多分に宗教的な意味あいがありました。しかしその後、世界中で使われている「グローバル化」は多分に経済的な意味で使われるようになってきたという感覚を覚えています。目指すべき心構えの一つとして掲げる分には構わないのです。ある意味では、グローバル化といったラインが目標にされたことによって、それぞれの教育機関でやるべきことが見えてきたのではないかという思いでおります。しかし公教育で小学校から高校、大学まで全てをグローバル化につなげるというのは荷が勝ちすぎているのではないかと案じています。全てをグローバル化という視点から見てしまうと、そこにこぼれてしまう人がたくさん出てくる可能性が高いのではないでしょうか。公教育では基礎教育をするぐらいにしておくべきではないかと考えております。その上で、高等教育等で必要な人材はしっかりと育てる。どんなに厳しくても、嫌でもやってもらいますというくらいにしないと公教育がおかしくなってしまいます。
田中:実際に国際社会で活躍されている佐藤先生にお聞きします。JICAの場合は東南アジアや中東といったいろいろな所にも連携の絆を持っていらっしゃるわけですが、国際人と外国語教育という視点から、これまでのご経験を踏まえて何かお話をしていただけますか。
佐藤:はい、私は「グローバル化」というと、国と国との国境がだんだん薄れていくというように捉えています。これはコロナ禍以前のことですが、人や物、あるいはお金や情報などが自由に国境を越えて行き来するような状態のことを「グローバリズム」と呼んできたと理解をしています。例えば安全保障の問題についてみると、以前はそれぞれの国家が自分の国民を責任もって保護するという前提で、国家と国家が安全保障条約を結んで、お互いに守り合いましょうと言っていたのが、冷戦の終結以後、だんだん国家間の戦争ではなく国の中での内戦が増えてきた。難民が次々と国境を越えていますし、国家単位というよりは個々の人間に着目した安全保障が重要になってきた。「人間の安全保障」の考え方です。今回の米国大統領選でもヒスパニック系の住民の票が非常に重要視されるなど、「異文化コミュニケーション」というところが非常に重要になってきているのかと思います。日本も例外ではなく、海外の人材が入ってくると多文化の中で生きていかなければならないということになると思います。そして、日本人としてのアイデンティティを持つための教育というものが、小学校、中学校あるいは高校で英語力を支える基礎的な能力として必要だろうし、日本語力も必要です。日本語の力というのは英語力と切り離せないと思います。文章力、語彙力の積み重ねが出来てくると英語の力もそれなりにつき、日本語できちんと意義のあることが喋れれば、少々拙い英語であってもみんな聞こうとしてくれることになるのかなと思います。
田中:どうもありがとうございました。資料を見ると我が国の英語力の現状というところで非常にランクが低く記録されておりまして、英語の先生方が一生懸命努力していても、どうして日本の学校英語はなかなか発展、向上しないのかというのが、ずっと思っていたところです。寺内先生に、一言ご意見を伺えないかと思いますが、いかがでしょうか。
寺内:はい、まず私の専門がESPというもので、ある目的を達成するためにコミュニケーションを取っていくやり方です。それは話し言葉でもあるし、書き言葉でもあって、あるいは読む力でもあります。例えば、パイロットにこういう英語が必要としているので、このようなものをマスターしていくべきというのがもともとのスタートです。それが発展し、アカデミックな世界でも認められる論文の書き方をしないと、グローバル社会で認められません。アングロサクソン系の人たちと何かをしていくというのが当時の英語教育の目的でしたが、今は英語というコミュニケーションを通して、アジアであろうがアフリカであろうがビジネスや、芸術、文化において目的を達成していく。そうするとネイティブスピーカーのような英語の完璧性みたいなものではなくて、ELF(English as a Lingua Franca)といった考え方を共通していく時代になってきているというのが我々の考えているところです。だから学習者にとっての文法や発音がネイティブスピーカーのようではないが、自分の言いたいこと、伝えなければいけないことをきちんと伝えられること、これが出来る者がグローバル人材である、と私たちは考えています。現実には、ビジネスパーソンになる人もいるでしょうし、アカデミアに進む人もいます。自分の目的を達成しようとして物事を考えていく、それがグローバル人材になっていくのではないかというのがESPとしての考え方ですね。
グローバル化に対応する大学入試
田中:どうもありがとうございました。渡部先生は大学院教育とともに、大学入試改革にも携わっておられるわけですが、そのあたりのところのご意見や今後の展望なりお聞かせいただければと思います。
渡部:大学院教育と申しますと、言語の表現以前の実績の内容にあるかと思います。必要がある限りにおいて徹底的に訓練するということが肝要となります。専門が英語系の学科だけが英語ができなければいけないというのはおかしいと考えるべきです。自然科学系でも、社会科学でもそれ相当の、そして相応のレベルの英語が必要に応じてできる必要があります。理工系でTOEICを受ける人も多いのですが、自然科学系でもTOEICで何点取れば授業を受けなくてもよいなどということが行われていますがおかしな話です。TOEICは質の高いテストですが自然科学系の内容ではありません。専門分野に必要とされる英語力というのは大学院になると切実な問題となります。学部から一貫させるべき課題です。入試に関しては、改革に大きく期待するべきではないと考えています。試験というのはそもそも英語でいう”gatekeeping function”、つまり各教育の段階に進むことができるかどうかを確認するための機能が第一であり、入学試験を使って入学前の教育を変えようとするのは本末転倒ですし、そもそも効果は限定的だということは数々の実証研究が示しているところです。大学で英語が必要であれば入試に英語を入れればいいし、スピーキングが必要であれば入試に入れる、そういう判断が適切ではないかと思います。
田中:いま大学院の進学率がすごく高く、世界的にみても英語が重視されているといった流れの中で、佐藤先生から日本の高等教育について何かご意見があればお願いします。
佐藤:はい、まず入試等について私の個人的な印象を申しますと、やはり高校までの教育の中では文法、英作文など、学びを深めておけば、論文を書く時にも単純なセンテンスの繰り返しではなく、それなりに含意が読み取れる上質な論文が書けるようになると思います。それから入試にスピーキングあるいはリスニングを入れることに関しても、そんなに重要視しなくてもいいのかなと思います。スピーキングやリスニングというのはコミュケーションですので、英語力を測るのに相手の顔を見ずに聞いて、わかりますか?というのもあまり意味がないのではと思いますし、スピーキングやリスニングは大学に入ってから訓練すればいいのではないでしょうか。あと、例えば社会科学系であっても学部によっては高等教育で英語の勉強がもしかしたら不足しているのではないかと感じており、大学英語教育で何を教えていかなければいけないのか、少し立ち止まって皆で考えたほうがいいという気がいたします。
田中:ありがとうございます。寺内先生いかがでしょうか。
寺内:はい。3年、4年の専門分野との連携をどういうふうにしていくべきなのか、あるいは大学院の時にどのように英語に触れていて、どういうことを行っているのかということに対して、先生方の共通理解が十分にできていないということや、先ほどのTOEICを入れる、入れないなどの決断をするのも英語の先生ではなくて、組織の上層部が決めているといったことなどがあるのかなというのがあります。もう一つ、大学の英語教員になるのが、JICAの方のような実務経験者など、その方々の経験が大学で生かされてくる。そこで生きたコミュニケーションをやっていきたい、だから大学の中でニーズは結構あるのですが、全体の中の方向性がまだ定まってないというところがあるかなと思います。
それと大学の英語教育の中にあるのは、スピーキング、リスニングももちろんなのですが、ライティング、リーディングに関しても、きちんと目的を持たせて話をさせる、目的を持たせて書かせる、書かせるためには読ませる。今の高校生を見ていると、かなり流暢に話す子たちがすごく増えて彼らが大学に入ってきていますが、文法的なことよりも話すことはできるようになっているので、きちんと読むことの重要性とか目的を持たせて書かせるなどすれば、今の大学院の話とかなりつながってくるのではないかと思います。
日本の大学入試と卒業レベル
田中:はい、ありがとうございます。
1990年代の大学設置基準の改正によって、定員が緩やかにされたのですが、私が最近心配しているのは、大学がその後どんどん増えて、去年あたりの大学の定員が満たない大学が全体の35%以上になっていています。そうすると大学の経営者にとっては外国語教育どころではないわけですよね。一方において、素晴らしい伝統ある大学の中には大学院まで創って、素晴らしい教員を雇って、素晴らしい英語教育と国際教育をやっている。その結果、格差がすごくでてくるわけです。どうやったら大学の卒業生の語学力を高めるか。日本の場合は入試が結構厳しいですが、韓国と台湾の大学は出口を厳しくするという制度をとっていました。中国は2年生終了時に厳しい試験制度があって、それをクリアしないと3年生に上がれないというような制度をとっていたのですが、日本の大学は、民間の検定試験の合格を単位として認めて卒業させる。そうすると大学自身の努力なんかといったものが、あまりみられない状況になっています。そういう流れが一方にあるものですから、なかなか全体として日本の大学生の語学力を向上させるということが制度的に難しいのではないかと思うのですが、渡部先生いかがでしょうか。文科省の専門委員もなさっていますから、いろいろな角度からそういう現実をみつめながら先生もどうしたらいいかとお考えになってらっしゃるのではないかと思うのですが。
渡部:日本の教育文化というものを考えるということが多いですね。我が国の教育には一度入学させたら教員が最後まで責任を持って卒業させることを大義とするところが根強くあるように思われます。指導している学生の中には留学生も複数おりますが、彼らにも卒業まで責任をもって面倒を見るという態度で接してしまうところがあります。それは利点だと私は思っています。成果の上がらない学生を積極的に落とすことができないとすると、どうしても入口のところでしっかりしておくということになってしまうのです。これは大学院教育でも変わるところがありません。
田中:佐藤先生はいかがですか。
佐藤:そうですね、英語の成績だけで「上げる、落とす」を決めるということが、その大学が志向する専門教育のなかでどれほど重要なのかというのは、もしかしたらあるかもしれないですよね。それと、よく欧米の大学は卒業することが厳しいと言いますけれども、実際はやはり先生方が一生懸命指導して、なんとか卒業させようというところは日本もアメリカも一緒だと思います。
田中:寺内先生はいかがですか。
寺内:はい、まず卒業時の要件に関しては、外に対してこの学生がこれぐらいだということを証明できるような試験をやるというのはなかなか日本の実情では難しいです。可能性として大学入試で使っているTEAPを卒業の時に、どのくらいの伸びがあったか確認をする指標として何かのきっかけに使うのであれば、EAT(English Assessment Test)というものと絡めながら、この学生はこれぐらいアカデミックなものをマスターしたという証明にはなるかもしれません。
田中:ありがとうございます。
私は「日本ESP協会」というのを設立した時に、日本メディカル協会とジョイントセミナーを開催したのですが、その時に製薬会社から次々といろいろな代表の方が出ていらして、理系出身の方はライティングの力がないことがわかり、これも入試と関係があるのかなと思いました。今は逆にスピーキングだと言いますが、大学入試で一律にスピーキングを導入するというのではなく、専門分野に対応した語学の分野というものを考慮して、入試というものを考えたほうがいいのではないかという気がするのですが、渡部先生はいかがでしょうか。
渡部:先生のおっしゃることに同感です。テスティング方法から言いますと、スピーキングだけのテストはできないわけです。一般に高校で使われているテストを見ますと、スピーキング・テストといっても実態は文法やリーディングの確認をオーラルで行っているというものが多いのです。このようなテストを入試に入れることで、国際人がいきなり育つということはあり得ないと考えるべきです。それから、Common European Framework of Reference(CEFR)が頻繁に参照されますが、CEFR複言語主義という確固たる思想に基づいています。重視されるのはバランスの取れた4技能ではなく、いわゆるpartial competenceであり、例えばスペイン語ではスペインに来る時はC1レベルにしてください、スピーキングではC1が絶対必要です、ただ書ける能力はA1レベルでいいですよ、そういう判断のために作っているわけです。一律に4技能すべてできるようにするというのは、すべての学習者の目標とするには荷が重すぎるのではないかと思います。必要(ニーズ)に応じて各教育機関で個別に対応すべきだと考えます。
田中:佐藤先生はどうですか。実際に現地に出向いて、やっぱりスピーキングだけじゃなくて、そういう面でご苦労されたことはありますか?
佐藤:はい、結論から申しますと、大学入試でスピーキングというのは、そんなに重要視すべきではないというふうに思います。双方向のコミュニケーションの話なので、例えばパッと聞かれたことにその場で気の利いたことを英語で言えるか、といったようなことにあまり重点を置いてもしょうがないと思います。私たちも若いころ、最初に海外出張に行った際には、こういう話が出たらこういうことを言おうと発言メモを作って、それなりに説得的な議論をしようとする、そうした作業が一番重要な気もいたします。TOEICのように看板に何が書いてあるかを選択肢から答える、というようなところを過度に重視した試験だとしたら、大学教育の入り口となる限られた入試の英語の問題で見るべき話ではない気がします。
田中:寺内先生は以前からESPにご尽力されているわけですが、入試のスピーキングの問題も含めて、どういうご意見をお持ちでしょうか。
寺内:高校では、アカデミックライティングやエッセイライティングのような論理的に書くというのが『学習指導要領』で定められていますが、きちんと書いていくという練習が少ないというのはあると思います。また、その子たちがやってきたアカデミックライティングの基礎みたいなものが大学のライティングにつなげていくような発想で動いたほうがいいのかと思います。また、将来の目的によって使う英語が変わってくるわけで、そこで基礎となるような英語力を身につけるにはどうすればいいのか考えるほうがいいわけです。
田中:先生方の英語に対する思いというのは英語を使った体験などから作られた面もあると思うんですよね。日本の英語教育が本当に学生の英語力の動機につながっているのかどうかということの検証について、渡部先生、ご自身の体験も含めていかがでしょうか。
ESPとCLILの考え方
渡部:上智大学で数年前に実験を始めたCLIL(Content and Language Integrated Learning)に強く期待をしています。英語を科目の一つとしてとらえている限り、不得意な子や嫌な学習者も出てきて、それはやむを得ないと思うのですが、得意な学習者に対しては、そこを伸ばすといった個別性を考えてもいいと思うのです。内容、トピック、テーマをもとにして得意な分野で何か探してきてもらい、それを何らかの形でまとめるということがあれば、英語が不得意であっても、皆にひとつは認められるという機会となることが期待できます。「認められる」というのは重要な達成感を生む契機になります。CLILを推進しているのは言語能力だけではなく、認知技能や内容に関する知識をともに発達することが期待されるからです。ESPにも大いに関係があると思うのですが、教養、基礎教育としての機能を重要な役割として持っていただくことが必要になると思います。そこに批判的思考力など英語教育の一環となると、意味のあるつながりも出てくるのではないかと考えています。
田中:佐藤先生はいかがですか。
佐藤:自分の関心のあったことを英語で人に説明するというのは、日本の英語教育にややもすると足りなくて、自分でやってみよう、人にわからせようという意味では非常に有益ですし、大学に行っても役に立つかなと思います。
ところで、寺内先生にお伺いしたいのですが、先ほど高校でもアカデミックライティングをある程度取り入れてやっているということでしたが、高校の英語の先生方は、それに関してトレーニングを受けているのでしょうか。つまりアカデミックライティングまで一気に飛んでしまうと結構荷が重いとすると、CLILみたいな、やってみせて、それでわかったら褒めるというような感じで教え、英語に抵抗をなくすことも含めて、色々な人がやっていくというのもありではないかなと思っていますが、その点はいかがでしょうか。
寺内:はい、アカデミックライティングは大学でやっているようなものを高校で必ずしも取り入れるわけではなくて、入門編みたいな形で、きちんと論理構成をするというものです。導入があって、イントロダクションというのはこういう書き方をする、という基本的なものは始めてはいます。実は昔から高校の教科書に載っていても、実際にやっていたかというようなところがあったのですが、そこがある程度しっかりとしたものになり、教科書の中に完全に入るようになっていて、論理的に物事の話をさせるとか、英作文の問題も、ただの英作文じゃなくなっているというのもあるんじゃないかなと思うんです。ただ十分に浸透しているというところまできているとはいえないかもしれません。
CLILに関しては、もともとヨーロッパのものですから、どちらかというと英語を使うというところが非常にあって、日本人の場合は、L2みたいに第二言語まではいかない部分もあるものですから、どこまで日本語を介入させていいのかというのは、本来のCLILを現場でやっていくと、すごくギャップが出てきて難しいところではないでしょうか。ただ、一つだけESPがCLILと違うところは、ESPは言語の使い方を学ぶということがあるので専門的なものを、日本語でいろいろと説明をしながら英語で書いたり話をしていく、教育の中に日本語が入っていくというところなのです。
コロナ禍を見据えた大学英語教育の可能性
田中:これまで先生方から豊かな体験を踏まえたいろいろな見識を伺ってきましたが、そろそろコロナ禍の先を見据えながら、先生方にお話を伺おうと思います。ひとつはオンライン授業が大学で行われており、対面式の立体視覚の授業と違って平面視覚で先生の話を聞いているわけです。そこの違いから、だんだん長い間オンライン授業ばかり受けていると、ストレスが拡大化して若者たちや学生たちの生理現象に異変を生み出さないかと単純に疑問をもちます。もうひとつは言語教育にAIの導入のプラスとマイナス、それから機械翻訳の進展や通訳機器等の普及と言語教育への影響もあるのかないのか、そのあたりで先生方はどういうご意見をお持ちなのか、ひとことずつお伺いして今日の懇談会を終わりにしたいと思います。
渡部:新型コロナウイルスは災禍となったことは言うまでもありませんが、一方少なくとも教育界には思わぬ形で大きな可能性をもたらしたと認識しています。またそのように肯定的に捉えなければなりません。上智で担当している大学院生の中には海外に滞在している学生も複数おりますが、日本に来なくてもリモートで授業を受けられますので、ディスカッションもできますし、非常に可能性が広がりました。また、リアクション・ペーパーへの個別の返答も大変やりやすくなりました。一方、今後検討すべき課題も山積みになっています。たとえば、授業の醍醐味の一つは学生からの質問や応答で、教員が事前に想定した指導案とは異なる学びの機会となることにありますが、オンラインですと即興性の効果が薄くなるように感じられます。この観点からしますと、双方向のやりとりが大きな役割を果たす言語習得に関しては対面式には<何ものにも>代えがたい価値があると想定されます。とは言いましても、オンラインによって、対面式よりも多様な人とのコミュニケーションとの機会を増やすことが可能となりますので、かなりの言語能力は養成できるのではないかなと考えるようになっています。この意味では、コロナ禍はグローバル化における人材養成の新たな視点を私たちに与えてくれたのではないでしょうか。
田中:佐藤先生はいかがですか。
佐藤:JICAの奨学金で開発途上国から日本の大学院に留学するプログラムがありますが、新規の学生の来日が止まっているような状況で、プラス面としては母国にいても大学の授業をみんなと一緒に顔が見える形で受けられるというので、コロナ禍で人の往来が止まった影響を軽減しているということは言えると思います。ただ一方で、日本にずっと滞在している留学生の中には、ずっと家に閉じこもって授業を受けていることで、やや気が滅入ってしまったという人が多々いるということですね。少し広げて、私共の仕事になりますと、メリットとしてはアウトリーチが広がるということはありますね。AI化という話をするのであれば、例えば子どもたちに文法を教えるのにゲームを活用して得意不得意を分析しながら進められるのであれば、使ってもいいのかなと、あるいはなかなか学校によっても英語の先生も得意不得意があるでしょうから、一部例えばリスニングをロボットみたいなものがやるというのがあってもいい気がいたします。機械翻訳は、最近は非常に優れていて私も使う時がありますが、タイ語やアラビア語を日本語に訳すとおかしくても、英語に訳すと非常にきれいな翻訳が出てくるので、いろんな言葉を英語にいったん変えたうえで、それを読むなりすると結構便利かなと思います。機械翻訳の高度化はこれからどんどん進んでいくので場合によってはこの部分の教育は機械翻訳があるからいいじゃないかという議論は当然出てくるような気はいたします。通訳器について私はポジティブに捉えていまして、こういう時はこう言えばいいのかとか、発音もしてくれますし、使っているとどんどん自分でも言ってみたくなるのではないかと、悪くはないかなと考えています。
田中:寺内先生はいかがですか。
寺内:まずこのコロナ禍で変わったこととして、コミュニケーションの形態と教えるやり方だと思います。オンライン教材のためのものというのが非常に要求されるようになりました。今までの紙媒体がただ単にデジタル化しただけだとこのコロナ禍では対応できないということが明らかになったので、先生方がこの一年本当に苦労しています。また、オンライン授業での評価というものが本当にこれでいいのかという検証が必要で、評価についてどう考えるかが非常に重要だと思います。もうひとつ、リモート授業をやっていると学生の集中力が全然もたない。そうすると集中力を持たせるための基礎研究も必要となってきます。これは英語教育だけの世界だけではなく、様々な研究者が集まって考えていかないと大変かなと思います。それから、翻訳ツールということでは、もっと発達していくと思うので、これを使って何ができるようになるのかということを教員が理解していないと、学生たちは日常茶飯事で使っているので、教員も使い方を理解する必要があると思います。まとめると、英語教育の意義とか形式とかが問われ始めて、この時代から戻ってもリモートを使いましょうという時代がくると思いますから、大学の英語教育はそうなっていく可能性があるのではないでしょうか。もうひとつ、今後、JACETの大会も海外の発表者がすごく増えて、物理的に距離がなくなったまま自由にアカデミックな世界に入ってくることが予想されます。ある意味ではチャンスになっていて、これからこういうイベントも含めて時代の流れで参加者数がかなり増えて、真のグローバル化というのがやりようによっては出来てくるかなという話をしているところです。
田中:どうもありがとうございます。本日は先生方の貴重な体験やご意見を伺うことができまして、本当にありがとうございました。
全員:ありがとうございました。
文責「ELEC通信」編集部