グローバル化における英語教育についての一考察 文法訳読法・翻訳教育の再考

飯塚秀樹(獨協医科大学准教授)

国際NGO国境なき記者団による報道の自由度ランキング1) によれば、2023年における日本の順位は68位となり、これは主要7カ国の中で最下位となっている。また、全国労働組合総連合(全労連)による1995年から2016年までの実質賃金指数の国際比較2) を見ると、スウェーデン、オーストラリア、フランス、イギリス、デンマーク、ドイツ、アメリカなどの欧米諸国が右肩上がりを示す一方、日本のみが下降を続け、2022年の1人当たりGDPのランキングでは日本は27位にまで落ち込んでいる3)。さらに、朝日新聞デジタルの2022年の記事4) では、コロナ禍前5年間(15〜19年)平均と比較し、我が国における19歳以下と20代の自殺者数には顕著な増加傾向が見られるという。

これらの事象が示すように、現在、日本社会には様々な問題が山積している。未曾有のスピードで展開するグローバル化の中で、私たちの暮らすこの日本社会に一体何が起きているのか。

次に、一語学教員として、社会だけでなく、言語にも目を向けてみたい。現在、地球上には約195カ国あり、そして7,100以上もの言語が話されている。素晴らしい多様性、多言語共生だ。しかし、この500年で地球上の言語は半減し、さらに現在では2週間に1つの言語が消滅しているという5)。1年には52.2週あり、2週間で1つの言語が消滅しているのであれば、1年間で約26の言語が消え去り、現在地球上にある7,100の言語は約237年でなくなる計算だ。そんなことある訳ないだろうと思われるかも知れない。確かに、陸続きであるヨーロッパでは、常に隣国からの脅威にさらされてきたため、母語を含め自国文化を守る意識が高い。それらの国々では言語法や国語保護法などを打ち立て、言語消失に対抗している。欧州連合 (EU)でさえ、言語を1つにまとめることはせず、現在27加盟国の23言語を公用語として認めている。このように各国の言語をしっかりと守ろうとする意識があれば、言語の消滅は防げるだろう。しかし、日本語は今後どうなるのか。現在日本語は世界第9位の話者人口を持ち、島国でもあるため、消滅の危機にさらされていると考える人は少ない。しかしながら、人口減や海外からの居住者が増えつつある現状を鑑みれば、私たちが今後も単一言語話者でいられる保証はない。さらにそこにグローバル化に乗り遅れまいとする大手企業の英語化や、我が国の英語教育の施策が絡んでくる。

ユニクロや楽天などの企業が海外事業展開を視野に、英語を社内公用語化にしたことは広く知られている。そしてこのようなビジネス界からの要請を受け、我が国の教育機関でも加速度的に英語化が進んでいる。小学校からの早期英語教育は2011年度の外国語活動の導入から始まり、2020年度からは英語が教科化され必修となった。中・高等学校の学習指導要領(英語)を見ると、授業は実際のコミュニケーションの場とするため、英語で行うこととすると明記されて久しい。大学でもスーパーグローバル大学創成支援事業6) が進行中で、これは世界トップレベルの大学との交流・連携、学生のグローバル対応力育成のための体制強化を目的とし、それに取り組む大学を重点支援するという国家レベルの施策だ。現在、国内37大学がそれに採択され、外国語による授業科目を増やし、外国語のみで卒業できるコースの在籍者を増やすなど、グローバル化にむけて突き進んでいる。さらに、私が現在所属する医療系の大学においても、日本医学教育評価機構(Japan Accreditation Council for Medical Education: JACME) というものが組織され、グローバル化へと邁進する。これは通称ジャックミーと呼ばれるもので、日本の医学教育の質を国際的見地から保証する役割を担う。このジャックミーは、世界医学教育連盟 (World Federation for Medical Education: WFME) による基準から、世界の医科大学を評価・認証し、それに適合しない場合、その医科大学の卒業生には、米国医師国家試験受験資格が与えられないとするシステムだ。このような流れを受け、我が国の医師国家試験では2019年から英語問題が出題されているが、現段階では合否に影響を及ぼすほどの問題数とは言えない。しかし、2022年に開かれた第25回日本医学英語教育学会年次大会では、現場の医師から医師国家試験問題はすべて英語にすべきだとの声も聞かれた。このようにグローバル化はあらゆる領域に浸透し、それにより、これまで我が国が長い年月をかけて積み上げてきた様々な価値観や制度、そして時に風習までをも無効化し、新しいものへと置き換えてしまう。

現在、私たちの多くはグローバル化がもたらす恩恵を享受しながら、日常生活を送っている。グローバル化により、技術革新や情報通信技術の普及が促進され、日本企業は新たな市場を開拓し始め、私たち自身も世界の情報を瞬時に把握できるようになった。さらに、海外からの観光客が増加することで文化交流は促進され、地域経済の活性化や異文化間の理解も深まるだろう。そしてそれは国際社会で平和的な関係が築かれることに役立つはずだ。と、ここまで書いてきたが、昨今の世界情勢やCOVID-19などの感染症の影響を考えると、私たちはグローバル化がもたらす負の側面や、その脅威にも目を向けなければならない。

これは一般的に言われていることだが、グローバル化が進むにつれ、低賃金の労働力を持つ途上国との競争は激化し、それにより、日本の一部の産業が海外への移転を余儀なくされる。そして国内産業の空洞化と雇用の減少に拍車がかかる。また、海外における景気後退や、国際金融市場の動向も日本経済に直接的な影響を及ぼしている。冒頭で触れた各国の実質賃金指数の国際比較を見れば明らかであるが、欧米諸国は自国の利益を確保しつつ、上手にグローバル化と折り合いをつけているようだ。しかし、我が国はどうであろう。

先日、私の担当する異文化間コミュニケーションの講義で、大変興味深い一つの日本文化の側面、日本人が古来より持つ精神性に改めて気づかされた。その講義で使用しているテキスト7) によれば、英語圏での社交辞令 (polite fiction) はその前提として、you and I are equals という概念が常に存在する。つまり、あなたと私は対等であって、これはあらゆる対人関係において、たとえ職場の上司や部下との関係においても、無意識に共有される概念だという。一方、それに相対する日本人の持つ社交辞令、礼儀作法は you are my superiorというもので、私たちは自分を下げ、他人を敬う傾向にある。このテキストは40年ほど前に書かれたものがベースとなっており、私たちの持つこのような精神性は現在では幾分変容しているのかも知れない。しかし、基本は今でもそれほど変わってはいないだろう。そしてその著者は続ける。These fundamental polite fictions, which are closely interrelated, make up a logically consistent psychological world which unconsciously shapes and influences everything we feel, think or do. (これらの基本的な社交辞令は、密接に関連し合い、論理的に一貫した精神世界を構築する。そしてそれは私たちが感じ、考え、行動すること、すべてにおいて無意識のうちに影響を与えている。)ここで私が大切だと感じる部分は、対人関係において私たちは「無意識」的に you are my superior という相手を敬う概念に基づいて行動してしまうということだ。これは私たち日本人が持つ美しい精神性のひとつとも言え、それが日本語の敬語にも深く浸透している。あるいは日本語という母語がこのような日本人の精神性を作り出しているのかも知れない。筑波大学教授の津田氏は、「母語は、人間の性格や品格や長所や短所も全てひっくるめて影響を与えるものです。一言で言えば、母語が人格を作ると言っても過言ではない」8) と述べている。本講義の参加学生の一人は、このような相手を敬う精神性や言語を持つ日本人は、本来、海外に進出して戦争を始めるなどの暴挙には出ないのではないかと感想を述べた。翻って我が国の現状を見るに、私たちは海外からのグローバル化の流れも無意識に敬い、ただただ受け入れてしまってはいないだろうか。あまりにも無防備に。

これから学生たちを実社会に送り出す上で、我々教員には、この高度にグローバル化された世界の中で十分に戦える武器を学生たちに徹底的に身につけさせる責任がある。そのために必要となる強力な武器が高度な英語力と、そこから導かれる批判的思考力ではないかと感じる。それらが十分に備われば、たとえ報道の自由度が低くても、海外の Social Networking Service(SNS)や他の媒体から様々な情報を入手でき、それを注意深く吟味することで自己決定に活かせるはずだ。そしてその自己決定力は生きる力を生み出し、この世界でも十分に戦えるようになるだろう。また、高度な英語力が備われば、外の世界も知ることができ、それは主観的な視点やバイアスを取り除き、自国や母語を客観視することに繋がる。日本の将来を担う学生たちが活躍できるようにするためには、その前提として、国という枠組みを私たち大人がしっかりと護り、冒頭に挙げた我が国の抱える諸問題を払拭し、彼らが安心して学問に励み、社会生活を送れる場を提供する必要もあるだろう。ではそのためにはどうしたら良いのか。

その鍵となるものが、日本語の再考と言えるかも知れない。英語教員がそのようなことを言うのは大いなる矛盾と感じる人もいるかも知れないが。センチュリー・ディクショナリーの編者であり、イエール大学教授のウィリアム・D・ウィットニー氏は、母語を捨て、外国語による近代化を図った国で成功したものなどほとんどないと述べる9)。これは明治期の日本を振り返れば明らかで、当時、世界の最先端の知識が日本語に翻訳され、外国語を理解できるエリート層のみでなく、末端の市民にまでその知識が広く行き渡った。それこそが日本が近代化に成功した要因だとも言われている。また、先の津田氏も日本語は外国の影響に対する防波堤であり、日本語を守ることにより、日本と日本人は守られていると指摘する。さらに、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏も、アジア諸国を訪問した際、なぜアジアで日本だけが受賞者を輩出しているのかという質問を受け、母国語で専門書を読むことができる日本の優位性を痛切に感じたと述べている10)。母語というのは外国語や第二外国語とも本質的に異なる。それは子供の頃から、いや、母親のお腹の中にいた胎児の頃から接し、先祖代々引き継いできた言語・精神性なのだ。母語は単なるコミュニケーション・ツールでは決してなく、私たちのアイデンティティー、もしくは魂と言えるだろう。そしてその豊かさが国の基盤を形成するのだ。

私は我が国の教育機関の英語化を否定するつもりは毛頭ない。むしろ、この世界の中で、英語を介して海外の情報をリアルタイムで理解できるかどうかはもはや死活問題であり、日本の存続に直結する問題であると捉えている。従って、あらゆる手段・方略を用いて私たちは英語獲得に向き合わなければならない。だが、その過程において私たちの母語である日本語から目を背けてはならないのだ。バイリンガル研究を見れば明らかなように、生まれながらに2つの言語で育った子供でさえも、あらゆる場面で2つの言語を均等に使える「均衡バイリンガル」になれる訳ではない。たとえ英語教育環境が十分に整ったとしても、2つの言語を同等に扱えるようになるのは容易なことではないのだ。鳥飼11) は、英語が共通語になれば、英語を母語として使う人々が圧倒的に有利になる事は間違いないと警鐘をならす。確かにそうなのかも知れない。国際学会などに参加しても英語母語話者は自由闊達に英語で彼らの論理を展開する。しかし、非英語母語話者には大きな強みがあることもまた事実と言える。それは英語+母語という、私たちが英語に接した際に必然的に内包する価値基準の多重性なのだ。それを見失ってはならないだろう。

現在、我が国のほぼすべての大学で英語が必修科目になっているが、国語を必修化している大学は数えるほどしかない。「日本語が亡びるとき」の著者、水村氏12) は、英語を普遍語と位置づけ、その絶対的な支配力を前にして、日本語は衰退を余儀なくされ、現在の国語からローカルで地位の低い現地語に転落すると警告している。九州大学の施氏13) はさらに、「大学の授業の英語化が進めば日本人の研究者が日本語で執筆し、出版することも難しくなる。結果的にもたらされるのは、日本語が学術の言葉ではなくなってしまう事態である。各分野の先端的な概念は、日本語に翻訳されず、日本語がそうした専門用語を持たない言語となってしまう」と続ける。そうであるならば、最新の英語教授法を展開するのと同時に、文法訳読法を再考し、それをさらに前進させた翻訳教育を日本の英語教育に取り入れてみるのはどうだろうか。

かつて、文法訳読法、いわゆる Grammar Translation Method は英語コミュニケーション力の向上に寄与しないと猛批判を浴び、我が国の英語教育界から葬り去られた経緯がある。しかし、当時はそれのみが英語教育として実践されていたが故に批判の対象となったに過ぎず、コミュニケーション力を高める他のアプローチもそこに組み入れれば、決して悪い方法ではないだろう。むしろ、世界の最先端の知識をしっかりとした日本語に訳す「翻訳教育」こそが、我が国の語学教育のみならず、高等教育に欠落している要素なのではないか。先に触れた施氏は「翻訳作業とは、翻訳される言語と翻訳先の言語とのあいだで綿密な概念の突き合わせが行われ、双方とも厳しい知的吟味にさらされる過程である。」と述べる。翻訳をとおして日・英両言語を厳しい知的吟味にさらし、日本語を見つめ直すと同時に新たな日本語をも作り出していく。グローバル化が進む世界の中で、これからの日本社会を護り、さらに発展させるためにも、このような国語力を高める視点も、我が国の英語教育には必要なのではないだろうか。

 (いいづか ひでき)

【参考文献】

1) https://www.asahi.com/articles/ASR53566JR53UHBI00W.html

2) https://www.zenroren.gr.jp/jp/housei/data/2018/180221_02.pdf

3) https://financial-field.com/living/entry-164600

4) https://www.asahi.com/articles/ASQBH1BTYQBGUTFL00M.html

5) 津田幸男 (2011). 日本語防衛論. 東京. 小学館.

6) https://tgu.mext.go.j

7) Sakamoto, N., Sakamoto, S. (2004). Polite Fictions in Collision. 東京. KINSEIDO.

8) 津田幸男 (2011). 英語を社内公用語にしてはいけない3つの理由. 東京. 阪急コミュニケーションズ.

9) Whitney, W.D. (1972). On the Adoption of the English language in Japan. 森有禮全集第三巻. 東京. 宣文堂書店.

10) 朝日新聞 (2014). 11月26日朝刊. 東京. 朝日新聞社.

11) 鳥飼玖美子 (2010). 「英語公用語」は何が問題か. 東京. 角川Oneテーマ21.

12) 水村美苗 (2021). 日本語が亡びるとき. 東京. ちくま書房.

13) 施 光恒 (2015). 英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる. 東京. 集英社.