理系のための英語教育‥考

片山七三雄(東京理科大学教授)

1 初めに

英語に苦手意識を持っている理系学生は多いですよね。
実際に理系学生は英語ができないようですし、理屈っぽい質問もしますよね。

のような声を大学の英語教員などから聞くことがあります。そして実際、理系学生からも英語が苦手、英語ができない、という声が多くあります。なぜ理系は英語が苦手なのでしょうか。そして、そこに何らかの解決方法はあるのでしょうか。筆者は、高校は理数科に進み、数Ⅲ迄はもちろん、物理・化学・地学・生物と理科四教科を必修で学びましたが、大学進学時に英語教員の道を選択しました。この意味で「理系の英語教員」である筆者自身が、一人の「理系の英語学習者」として英語学習に悩んでいた経験、そしてそれをある程度克服した経験から、現在主に大学で実践・研究している「理系のための英語教育」についてお話しさせていただける場をいただけましたことに、ELEC通信編集部には深く御礼申し上げます。

なお、本稿はあくまで筆者個人の経験に基づくものであり、理系を代表する意図は毛頭ありませんことをご了承いただけますよう、お願いいたします。

2 「理系のための英語教育」という問題

理系学生が英語ができずに困っている現状があることは確かですが、これがどの程度解決するべき問題として認識されているのでしょうか。中高の教員を対象にした東京私学教育研究所で開催された講演会で、筆者が「理科系のための英語教育とは」(2016年11月29日)のタイトルで発表した際には、英語教員10名程度の参加がありました。しかしこの講演会の主催は「文系教科研究会(外国語)」ではなく、「理数系教科研究会」です。そして、「グローバル化に対応した理数教育」の枠組みの中での開催であり、理数教員の方は40名程度の参加がありました。

また、「理系向けの英語」の趣旨の書籍も多数ありますが、その著者も大学を含む理系の専門の方が多いです。これらから分かることは、「理系のための英語(教育)」というのは、主に中高大の理系教員の問題意識であり、その解決策を考えている中心も理系教員ということになります。

ところで、この「理系のための英語教育」の問題を考える場合、以下の様に「対象」「内容」「英語」の三つの側面から考える必要があります。

対象:理系の学生

大学では専門学部などで、高校では普通科などでは高校二年生以上で理系・文系と分かれて以後、理系学科のある高校の場合は1年生の段階からを含みます。

内容:理系の内容の英文

中高で英語教員が理数系教科を英語で指導する機会は少ないでしょうが、CLIL的授業では十分に可能性があります。大学では、これが英語の教材としてではなく、理系の教員が専門の授業のテキストとして用いられるのです。

英語:理系の専門書・論文で使われる英語

理系英語又は科学英語とも呼ばれます。その特徴として3C(Clear、 Correct、 Concise;又はClearの代わりにConcrete)が挙げられます。そして、このような英語(の使い方)は、高校までではあまり学習しません。さらにTOEICなどの英語と異なる部分があります。

上記のように分けて考えると、この問題が最も顕在化するのは、この三つの側面がすべて揃った、大学の理系学部の学生が専門の理系の授業で理系英語で書かれた英文を読む際になります。本稿ではスペースの関係もあり、また理系の「英語苦手意識」が形成されるのは大学入試以前であることが多いため、中高での英語教育の中で対応可能な「理系向け英語教育」を中心に話を進めてまいります。

3 評価者は誰か

「理系は英語が苦手」と評価するのは、まずは英語教員です。ところで英語教員は「文系」出身が多く、筆者は「理系」出身の英語教員にほとんど出会ったことがありません。しかし、少ないながら出会った方は、「理系は英語が得意である」との考えに同意でした。畠山雄二氏による「理系の人は なぜ 英語の上達が早いのか」(2011:草思社)という書籍が発行されていますが、この方も大学院の専攻が理系です。このタイトルでは「理系と文系のどちらが英語の上達が早いのか」という比較(疑問文)ではなく、既に「理系の方が英語の上達が早い」と断定的に述べて「その理由」を説明しようとしています。ここから考えられる一つの単純化した構造が以下です。

「文系の英語教員」及「理系学生」は「理系は英語が苦手」と思っているが、
「理系の(英語)教員」は「理系は英語が苦手」だとは思っていない
むしろやり方によっては理系の方が英語の上達が早いと思っている)

ここにどういう問題点が潜んでいるのでしょうか。筆者が中高大の英語学習時に実際に感じたこと、その後研究してきたことから考えられる一つの仮説があります。それは「文系」を「右利き」と例え、「理系」を「左利き」と例えた場合、以下の様に言えるのではないかということです。

右利きの人が、右利き用の道具を使って、左利きの人に教えている。
左利きの人は右利き用の道具に戸惑い、上手に使えない。
その結果、右利きの人は左利きの人の能力を低く評価し、
左利きの人は苦手意識を覚える。

それでは、ここでいう「右利き」「左利き」を分けるものは何でしょうか。

4 学習スタイルの違い

中高における英語以外の教科を、文系科目である国・社と理系科目である数・理に分けた場合、この二つの教科群の最も大きな違いは、単純化すれば、公理定理・公式類が存在するか否かでしょう。国・社では、主に個別事項を覚え、それをそのまま再生することでテストの点数をとれるものが多いですが、理系科目の定理・公式などは、試験で直接的にその知識を問われるというよりも、個々の問題を解く際に正しく運用することが求められます。そのためには、定理・公式の学習では、何と何がどういう関係にあると言っているのか、という記号や数値の結びつきを「理解」することが必要です。

さらに、それぞれ教科のもとになっている「学問」の体系を考えてみてもその違いがよくわかります。理系では、基礎系と応用系があり、それが学部・学科の分類にもなっています。それに対して文系ではそのような分類は原則ありません。このことが、一つの大きな問題を引き起こしているように思えます。理系が言う「基礎・応用」の区別は文系にはないため、一般によく言われる「基礎」から英語を学ぶという際に、理系的に見た場合には「基礎」ではないように思えるものが含まれています。

理系の「基礎・応用」の考え方を英語学習・教育に適用すれば、単語や文法形式の本質を十分に理解することが「基礎」であり―実はこれができれば、何時どういうときにその語、その形式を使う、使えるのかがすでに理解できているので、すぐ応用できます―あとはそれを使えるように「練習(実践)」するということになります。英文法を「規則」として学ぶ以上、理系的にはどうしても理系科目学習スタイルに落とし込んで理解しようとしてしまいます。その結果、様々な点で躓きます。そのような項目をいくつか取り上げてみます。

4.1 定義されない用語

「to不定詞」は「to+動詞の原形」という形で三用法がある、という説明がありますが、この説明には一つ、大切な点が欠けているのです。この用語を学習する以前に、「不定冠詞」と「定冠詞」を習いますが、それぞれ「不定のものを指す」、「定まったもの指す」と説明されます。しかしこの「不定詞」では、「何が」不定なのかの説明もなく、また、これと対になるであろう、「定詞」の説明もありません。冠詞同様に、何が「定」「不定」なのかの説明があれば、より理解が深まると思われます。

4.2 関係が整理(体系化)されていない用語

to不定詞は、「名詞的用法」「形容詞的用法」「副詞的用法」に分類されますが、「~ing形」は、それぞれ「動名詞」「現在分詞の形容詞的用法」「分詞構文」のように異なった名称で分類されます。「~ing形」の三用法の名称を「to不定詞」の三用法に合わせれば、例えば「動名詞」が「~ing形の名詞的用法」、「分詞構文」が「~ing形の副詞的用法」のように呼べます。このようにすれば、過去分詞形を含めた準動詞全体の説明に異なる名称を用いずに済みますので、体系(分類)がスッキリするように思えます。

4.3 矛盾して見える説明

以下の英文の説明(分類)を考えてみます。

It has been raining for two days.

これは現在完了(進行)形の継続用法として説明されますが、この英文で表されている内容は、今現在も雨が降っている(進行・継続)ということでしょうか。もし降っている(継続中)ならば何故「完了形」を使うのでしょうか。逆に、今現在雨が止んでいる(降ることが完了)のならば、何故「進行形」を使い「継続用法」になるのでしょうか。一般に物事は「始まっていない」「進行・継続の最中」「完了した」のどれかになるはずであり、「継続」と「進行」の二つの状況が同時に起こることはあり得ないはずです。このあり得ない用語の組み合わせで説明されることが現在完了進行形の理解を妨げ、この表現をいつ使用するのかが全く分からなくなります。

筆者が体験した上記のような疑問点は、筆者の勤務校の理系学生に話をすると、共感する人が多いのです。ですから、このような違和感が多数あることが、理系が感じる苦手意識の原点になっている可能性があります。

一方で、理屈で理解できなくても、to不定詞の三用法を暗記し、完了形も「for+期間」や「since」などがあれば「継続用法」として分類し、「ずっと~している」のように日本語に訳せるように勉強をすすめれば、結果的にテストで点数を取ることができます。つまり、理屈を考えずに、「習うより慣れろ」で身につくことなのなのです。これらの表現を特別に説明されて習うわけでもないのに、苦もなく使えているネイティブにとっては、上記のような疑問をそもそも感じないでしょう。この意味で、「習うより慣れろ」が正しい勉強の仕方なのでしょう。 しかしそれでも、理屈で納得できていないことそれ自体に違和感を覚えてしまうのです。

「習うより慣れろ」でよいものに、何故違和感を覚えるのでしょうか。

大変興味深いことに、理系の人の中にも、理系教科に対して同じように違和感を覚えた人がいます。工学者であり、失敗学の提唱者の畑村洋太郎氏が、「直感で分かる数学」(2004:岩波書店)の中で以下の様に述べています。

問題は解ける。しかし、どうも胸のつかえが下りない。なんだかモヤモヤするのである。「このモヤモヤ感はいったい何なんだろうか?」と考えるうちに気がついたのは、こういう

ことだった。自分には問題を解く技術(スキル)はある。しかし、数学の本質がわかっていない。

この「モヤモヤ感」とはほぼ「違和感」でしょうし、「本質」は「理屈」と言い換えることができるでしょう。理系が「英語」学習の際に感じるものと似ています。そして、さらに事の本質に迫る、面白い記述に出会えました。小川正賢氏は「「理科」の再発見―異文化としての西洋科学」(1998:農山漁村文化協会)の中で「一般の人々が「西洋科学」を学ぶことに価値があるのは、第一にこのような「違和感」を体験することにある」と述べています。数学もこの「西洋科学」の一部に属しているといえますから違和感を覚えることがあるのは当然でしょう。

英語はどうでしょうか。英語は「科学」それ自体ではありません。しかし、西洋の言語であり、その科学を発展させた手段(言語)です。しかも筆者が英語に感じた、理屈を理解できないというモヤモヤ感は、理系科目で感じる「西洋科学的違和感」にきわめて近いように思えます。この点から見れば英語は理系科目とも共通点があり、その部分に関しては、本質(≒理屈)が理解できるような教授法が考案できる可能性があることになります。(なお、このことは単純に言えば、英語の語法・文法などは理系と同じ方法で研究できるということになるのでしょう。)

5 終わりに

以上から、「理系のための英語教育」という問題に対する解決策を考えてみましょう。これは大きく、対処療法(個人的対応)と根治療法(社会的対応)に分けることができそうです。

5.1 対処療法的対応

まずは、個人として現時点で何かできることがあるのか考えてみましょう。

5.1.1 理系英語について知る

SSHにおいて、又はCLIL的指導時などで理系の内容の英文を授業で扱う際には、理想的には理系教員と英語教員が協力し、内容に関しては理系の先生が、英語に関しては英語の先生がそれぞれの側面から指導する―餅は餅屋にまかせる―ことが最適でしょう。しかし、その英語は、理系英語、科学英語になる可能性があり、すでに述べたように、通常の英語とは異なる部分があります。もちろん、そのような英語は習ったことがない、という方や、自分は理系ではないのだから、そのような英語を学ぶ必要性もない、とお考えの方もいらっしゃるでしょう。しかしこれらの英語は、以下の指摘にあるように、理系・文系関係なく役立つ英語になりえます。

理系英語の発想法は、「正確で過不足のない情報伝達」という目的に特化して、通常英語を洗練したものと考えることができます。(中略)理系英語は、技術者や研究者のみならず、文系の学生、ビジネスマン、英会話を学ぶ一般の方々など、英語を利用する全ての人に幅広く役立つと考えられます。(下線部筆者。以下同様)(佐藤洋一、「理系英語の発想法と英語学習へのメリット」『英語教育』、大修館、2008年6月号)

正しい英文法の知識をもっていれば誰でも書き手の意図することが理解できるようになっているのだ。そういった意味でも、科学英語こそが真の国際語であり英語の中の英語ともいえる。(中略)文系・理系を問わず、科学英語こそが究極の英語教材と言えるのだ。

(畠山雄二、前掲書)

先ずは先生ご自身がこのような英語に触れてみることから始めてみてはいかがでしょうか。必ずや英語そのものとしても得ることがあると思われます。

5.1.2 理系向け英語教育を考えてみる

筆者が大学進学時に英語の途を選んだのは、英語という言語の中に「西洋科学的違和感≒理系的要素」を感じ、自分の中のモヤモヤ感を解消したいという「理系魂」とでもいうべき気持ちが目覚めたからなのかもしれません。そして実際、研究・実践を通して多くのモヤモヤ感を解消することができました。そうなのです。きっと「理系の英語教員」は、理系である自らの学習スタイルに適合した「英語学習法」を作り出し、英語を身につけた人なのでしょう。

しかしこれは「理系の」英語教員にしかできないことなのでしょうか。これには、二つの側面―外的と内的―から実行できると思われます。

5.1.2.1 外的:生徒の声に耳を傾けてみる

(文系理系に関係なく)「言葉の理屈」に関する質問に来た生徒の声に耳を傾けてみませんか。直ちに「慣れだ」とか「例外だ」という解答をするのではなく、どこに「違和感(=疑問点=好奇心)」を覚えているのかを質問者との対話の中で探ってみると、そこに、(日本語と異なる)英語という言語の本質が隠れている可能性があります。そして可能ならば、その解答を(質問者と一緒に)調べたり、考えてみたりしていただきたいのです。そのような疑問を持った人は他にもきっといるはずですから、どこかに解答が存在する可能性が十分にあります。

5.1.2. 2 内的:理系的英語学習のロールプレイングをしてみる

左利きの人が練習を重ねて右利き用道具に対応できるようになることはよくある話です。逆に、野球選手で、右利き(右打ち)の人が、左打ちの方が有利なので、左打ちになって成功した人は多数います。ですから、右利き(文系)の方も、左利き(理系)の学習のロールプレイングをしてみませんか。つまり、4.1~4.3で述べたような用語の使い方や説明に疑問点を感じ、それに対して可能な限り理屈で説明・理解しようと努めるのです。もちろん、実際は左利きになれなくてもよいのです。その過程で、左利きの人がどこに困難点を感じるのかが分かれば、左利き用の道具としてどのようなものが必要なのか分かります。

個人的な感想としては、中高での授業や大学の文系学生対象の授業などで筆者が文法や言葉の使い方を理屈で説明した場合でも、分かりやすいという評価を受けることが多々あります。ですから、「習うより慣れろ」の指導で躓いている学習者に対する指導の際の選択肢の一つとして、理屈での説明方法を加えておくことは、十分に価値があることと思われます。

5.2 根治療法へ向けて

「理系のための英語教育」問題を本稿では考えていますが、この問題解決には単に英語教員だけの問題ではなく、日本の教育システムそのものの問題として考える必要があるかもしれません。それは、「理系の英語教員」という存在そのものなのです。

英語教員の側に、理系科目が苦手であることもあり、理系英語や理系学生に対する苦手意識があるという指摘があります(西村達、「突然、英語で理系の授業をすることになったら」『英語教育』、大修館、2008年6月号)。「理系のための英語教育」を英語教員が独力で考えることが難しいことの本質はこの点にあるのかもしれません。教員が指導に自信を持てなければ、きちんとした対策は立てにくいでしょうから。

このような状況が生じた原因の一つに、和田秀樹氏が「子どもを理科系に育てるには?」(新講社、2014)の中で指摘するように、「日本の受験システムというのは、世界でも珍しいくらい『理科系』と『文科系』に分かれてい」ることが挙げられるでしょう。理系・文系の区別には科目の選択・排除が伴うことが多く、大学進学時に文系を選択した場合、理数系教科を十分に学んでいない場合があります。この問題を解決するには、理系と文系の区別(というよりも、この区別による科目の選択・排除)を高校での学習や大学入試科目などからなくして、(米国でのSATのように、全員がMathematicsを受験するといったような程度には)全員が理系科目も文系科目も習うようにすることです。

こうすると、英語教員にも「理系の素養のある」ことが当然になりますから、理系向けの英語教育を考えることも楽になりそうです。その逆も真です。理系教員にも「文系の素養のある」ことが当然になりますので、文系が学びやすいような理系教科指導を考えることも可能になるのではないでしょうか。その結果、理系が苦手の人を減らすことも可能になるという好循環を作れそうです。このように理系・文系の垣根をなくすか、最低限今よりも低くすることが、本稿で取り上げた「理系のための英語教育」の問題に対する根治療法になりそうです。

その実現の可能性はあるのでしょうか。

あります。近頃は大学でも文理融合を目指すところが出てきています。最近では、早稲田大学が「高校や大学で文系と理系を分けていること」を「弊害が大きい」とし、今後「文理が融合、連携した教育を進める」と発表しました(朝日新聞2022年6月29日朝刊)。

これこそ筆者が長年想い描いていた理想です。このような社会になれば、「理系のための英語教育」も飛躍的に改善されることでしょう。いえ、そのような分類が不要になることでしょう。今は、その日が来てからでも役に立つ指導法の研究及びそれに基づく教育に邁進していきたいと思います。

筆者自身が「理系の」英語教員から
「普通の」英語教員になれる日を心待ちにしながら、
本稿を終えます。

駄文の長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

(かたやま なみお)