平泉・渡部論争とELEC ②

寺村 繁(元ELEC教育部長・元ELEC評議員)

渡部昇一教授の英語教育論

渡部昇一(わたなべ しょういち)教授の英語教育論「亡国の『英語教育改革試案』」が文藝春秋社の月刊誌『諸君!』1975年4月号に発表され、大きな反響を呼ぶ。それに対して「亡国の改革試案」と批判されたた当の試案の作成者である平泉渉(ひらいずみ わたる)参議院議員が翌5月号に反論を執筆して「平泉・渡部論争」が始まり、7か月にわたる論争が読書界をにぎわす。雑誌連載の終了後すぐに『英語教育大論争』として単行本にまとめられ、英語と英語教育に関心のある人たちの必読書となり、永続的に読まれることになる。それでも、広く知られ、多くの人々に読まれるようになったからといって、論争の内容が適切に理解されることになったわけではない。その当時もその後も、木を見て森を見ない断片的な言及や、紋切り型の解釈、さらには見当はずれな論評など、さまざまといえる。平泉・渡部両氏の論述が多岐にわたる問題を扱っていることもあり、また読者それぞれの立場と視点の違いから解釈が分かれることもある。それでも、適切な理解を妨げている一番の理由が渡部教授の主張の独自性にあることは確かといえる。さらに言えば、論争相手の平泉氏も渡部教授の発言の意図や真意を測りきれず、戸惑いを感じている様子さえうかがわれる。

教授法としては英文法・英文和訳・和文英訳に集中する「文法訳読方式」で、なんら目新しいものではない。むしろ目新しいこととしては、旧式の教授法・諸悪の根源として非難されてきた教授法が、知的訓練、母国語との格闘、潜在力と顕在力の区別、あるいはルサンティマンなどという聞き慣れない術語・概念で説明され、しかも唯一絶対的の正しい教授法と評価されていることである。そしてその言語教育論をベースに、聖徳太子の仏教研究、江戸時代の漢学を含め、日本人の外国文化の受容、外国語教育のあり方を確認し、議論を展開することになる。

以下、それまでの英語教育論にはなかった特異な術語と概念を渡部教授自身の言葉をもとに考え、渡部教授の英語教育論を適切に理解していきたい。

渡部教授の英語への情熱

その類を見ないユニークな教育論、文化文明論の原点には、少年時代の英語学習の姿勢があるように思われる。以下『英語教育大論争 私の英語上達法』から引用する。

・・いわゆる「英語気違い」・・私は高校の頃はその部類に属していたと言ってよい。当時は進駐軍のいた時代であったから、その宿舎に遊びに行ったりもしたし、英語だけしかしゃべらないクラブを作った。友達の父が映画館の支配人をしていたのに頼んで、アメリカ映画の定期券を許可してもらったのは傑作の一つではなかったかと思う。・・そのおかげで、グリア・ガースンの『心の旅路』などは八回以上見たし、喜劇では十四回見たという記録もある。弁当を持って出かけて、朝から夜まで三回も見たこともある。

なぜ山に登るのか? と問われ、そこに山があるから、と答えた人がいた。あるいは「我れ思う、故に我れ在り」とは哲学者デカルトのことばとして知られている。そして、何か目的を達成するための手段として英語を勉強するのでなく、英語の勉強自体が生きる目的という人もいる。渡部教授もその一人と思われるが、少年時代の英語への情熱はその後も衰えることはなく、大学では英語を専攻し、英語の先生になってもその信念はますます強固なものになる。それでも英語に対する充足感を持てず、小説や雑誌が気楽にスラスラ読めないという焦燥感に苛まれていたという。20代になって海外に留学するようになったが、現地の先生などが休憩時間に新聞・雑誌に目を通して事件の話をする、時事的なコメントをする、書評でとりあげられた本とその著者の話をする。あるいは下宿の女主人のおばさんが本好きで、流行作家の小説に読みふけっている。それ自体は当たり前の話なわけだが、自分の英語力がその域に達していないことを痛感したという。それで30代に入り、40才になる前にこの壁を何としてでも突破しなければという決意を固める。そのことだけを目的に夫人と3人の子どもを日本に残し、アメリカに単身居を移し没頭して成功を収めるまでの話を、渡部教授のもう一つの代表的著作である『知的生活の方法』で述べている。

この英語と対峙する姿勢・生き方は個人的な問題から職業人としての生き方に発展するが、その経緯を『英語教育大論争 私の英語上達法』から引用する。

・・ある語学をマスターする有効無類の方法は、その言語を母国語とする異性と結婚して、その土地に住み、そこで子供を育てることである。・・実は私も若い頃、そんなことを考えないでもなかった。しかし当時の日本の経済状態と私個人の問題でできなかった。・・

・・それで私ははじめからその可能性を断念していたのであった。しかし今から言えば、やっぱり職業人としての覚悟が不徹底であったと思う、と、職業人の覚悟の問題としてとらえ、種子島の鉄砲鍛冶のエピソードが紹介され、麻酔の華岡青洲や種痘のジェンナーの例が示される。さらには外国語とその言語文化をマスターすることを志した人の理想型としてライシャワー氏をあげ、

・・外国語を一生の仕事にする日本人がこれほど多いのに、国際結婚の数がこれほど少いのは、偏見や危惧のせいであろう。・・

このようなことを機会あるごとに若い諸君にすすめてきたつもりだが、まだ実行者は一人もいない。依然として偏見と危惧が大きいらしいのである。とりわけ臆病が大きな要素を占めているらしいし、専攻語の文化を徹底的に吸収しようとする意欲が足りないかもしれないと結論づける。つまり外国語をマスターするには国際結婚が理想だが、少なくとも一定期間その言語が話されている場で生活することが不可欠ということになる。この信念は自身の高校生の頃の猛勉強の体験の否定的な評価に裏打ちされていて、語学の上では、その国に行って留学なり仕事をすることが決定的なので、それにくらべれば日本の中でやる実用英語などは吹けば飛ぶようなものに思えてくる。

・・実用面における語学は多分に条件反射であり、『場』の問題である。国際的にすぐ役立つ語学が教室でできるなどという迷信は捨てなければならない。そういうことはできなくていいのである。ということになる。あるいは、その迷信とは、実用になるほどの外国語能力が普通の学校の授業で養成しうるということがそれである。・・やはり実用語学は留学しなければ物にならない、という一般的ルールを認めた方が誤解がなくてよいのではないだろうか。

(『英語教育大論争 平泉試案は新しい“廃仏毀釈”だ』)

・・周囲に英語を話す外人もいないところにいて、英会話の能力を身につけたり、その能力を維持し続けることはナンセンスに近い努力である。

(『英語教育大論争 亡国の「英語教育改革試案」』)

と断定する。

それでも、実用英語あるいは生きた英語、英会話、コミュニケーションのための英語といったことを勉強したいというなら、その基礎となる勉強に限定すべきであると主張する。間違っても実際にペラペラ話すことなど目標にすべきではないし、それが可能だなどと考えていけないと断言する。日本にいて教室でできることのイメージを、以下のように述べている。

比喩もう一つ加えておこう。山奥の国で、そこには海も、沼も、湖も、プールも、また深い川もなかったとする。そういう国で将来のために水泳を教えなければならないとしたら如何(いかん)。

私ならまず学生に体操を教え、マラソンをさせ、基礎体力をうんとつけさせる。それからアイソメトリックを採用して、水泳に特に必要な筋肉の強化をやる。それから桶に水を汲んで顔を突っ込み、目を開く練習をさせる。そして水泳というものがどんなものか、図上解説したり、映写機で実況を見せたりする。そして十分鍛えてから、「水泳者としての諸君の潜在的能力は開発した。これ以上のものを望む者は、海やプールのあるところに行って、しかるべきコーチを受けるように」と言うであろう。

(『英語教育大論争 平泉試案は新しい“廃仏毀釈”だ』)

外国語教育の核心は「母国語との格闘」

渡部教授は英語教育の問題を、単なる英語上達法のレベルで考えるのでなく、より広く、ことばと思考、外国語と母国語の問題としてとらえている。そして英語教師の資質に強い関心を持ち、教員養成について具体的な提案をしている。

それは「二科兼学のすすめ」・・英語教師に国語免許状を持たせるようなカリキュラムを配慮しろ、ということなのである。中高においては国語の時間は日本語の文学的勉強(鑑賞)になっており、英語の時間こそが、日本語の語学的勉強の時間になっていると言ってよいと思う。(下線部、原文は傍点表示)

・・英語の先生が、英語の先生であるだけにとどまっている限り、教室英語の恩恵が甚だ少くなるのである。実際上、もう英語教師の役目は、半分国語教師であるのだから、正式に国語・国文学をも修めるべきなのだ。古くは漱石、逍遥、上田敏など、英文科の教師たちが実に深い国語・国文学の造詣を持っていたし、近くは東大教養学部の佐伯彰一、芳賀徹、小堀桂一郎、平川祐弘といった諸氏の例がある。英語教師はすべからくミニ漱石、ミニ柳村たらんと志すべきで・・
それには・・英文科と国文科の両方の科を出るのが一番よいのだ。

(『英語教育大論争 私の英語上達法』)

さらに外国語教育の本質的な役割として「母国語との格闘」という考えを提示し、外国語学習の経験と言語能力なしには母国語の言語能力も不完全だと言い切る。以下、「亡国の『英語教育改革試案』」から引用する。

単なる実用手段としての外国語教育は母国語との格闘にならない。その場合は多くが条件反射の次元で終わるからである。「格闘」という言葉はおだやかでないが、英文和訳や和文英訳や英文法はことごとく知力の極限まで使ってやる格闘技なのである。そしてふと気がついてみると、外国語と格闘していると思ったら、日本語と格闘していたことに気付くのである。

ある経済学者が本多顕彰氏に「外国語が読めないものは日本の経済学の書物は読めない」と言ったそうである。これは別な言葉で言えば、「外国語と格闘することによって日本語と格闘したことのない日本人は、日本語で書いた経済学の本も読めない」ということになろう。何も経済学に限らない。哲学でも、文学論でも、法律学でも、あるいは新聞の社説でも、現代の日本語の相当部分は、今言った意味での母国語との格闘経験を経なかったものには極めて理解しにくいであろう。

ということになる。

それでは、英語教師が半分担うという国語教師の役目である「母国語との格闘」あるいは「日本語の語学的勉強」とは具体的にどういうことかといえば、

・・英文和訳するとすれば、好むと好まざるにかかわらず、具体的・実践的に母国語を分析的に反省し、再び総合的構成をやることになるからである。英作文ともなれば、普通の日本語を、まず英語になる日本語に転換することからはじめるのだから比類なき対照言語学の訓練である。しかも英語教師は生徒の日本語を訂正し、誤字まで正してやらなければならないのだ。

(『英語教育大論争 私の英語上達法』)

夏目漱石、坪内逍遥、等々を持ち出し、英語教師の「二科兼学」を提唱し、「知力の極限まで使ってやる格闘技」というので何かと思ったら、要するに英文を訳した学生の日本語のことのようで、竜頭蛇尾というか拍子抜けするような話ではある。しかしながら、これこそが渡部教授の英語教育論の核心であり、英文を日本語に訳すプロセス、訳した日本語の検討にこそ、母国語との格闘という英語・外国語教育そして国語・日本語教育の本質的な意義があるという独自の理論である。

英語授業の二つの流れ

 よく知られているようにヨーロッパでは19世紀の終わりに、フィエーター(Wilhelm Vietor)、グアン(Francois Gouin)、ベルリッツ(Maximlian Berlitz)などが文法訳読方式に代わる外国語教授法を提唱する。日本でも明治時代に既に新しい教授法が行われていたという。夏目漱石は作家になる前は英語教師で、東京専門学校(早稲田大学の前身)、高等師範学校(のちの東京教育大学)、そして愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)、熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)で教えたという。その五高在職中の明治30(1897)年に辞令を受けて英語授業を参観し、「佐賀・福岡尋常中学校参観報告書」を出している。伊村元道教授は「夏目漱石の英語教育論」(伊村・若林『英語教育の歩み』所収)の中でその報告書の内容の一部、漱石の授業評価のポイントと実際の授業について以下のように紹介している。

教授法については、大きくわけて、訳読一点張りか、何らかの形でオーラル・ワーク(口頭作業)が加味されているか、を問題にしている。オーラルといっても音読・暗唱といったごく簡単なものから、「生徒順次に一節ぐらいずつを和訳するの外は、豪も日本語を用いず。教師生徒共に英語を使用するに熱心なるがごとし」という本格派まである。

渡部教授の考える英語授業は、明治から今日まで続く文法訳読方式に分類されるが、その中でもオーラル・ワークに背を向けるだけでなく、日本語に訳す作業と学生が訳した日本語に徹底的にこだわる独特なものといえる。

ともあれ、「母国語との格闘」を主張する渡部教授と「英語教育廃止論」の平泉渉氏との間で英語教育大論争が始まることになる。

参考文献:

平泉渉・渡部昇一『英語教育大論争』(文藝春秋、1975)

渡部昇一『知的生活の方法』(講談社現代新書、1976)

伊藤嘉一『英語教授法のすべて』(大修館書店、1984)

伊村元道・若林俊輔『英語教育の歩み』(中教出版、1980)

てらむら しげる)