寺村 繁(元ELEC教育部長・元ELEC評議員)
1974年の英語教育廃止論
英語教育への批判や不平・不満はいつの時代にもあるものだが、本質的な問題が具体的に提起され、英語教育論議が国民的関心として盛り上がることになった1974年は特別な年といえる。
ことのはじまりは1月に刊行された『なんで英語やるの? ある英語塾の記録』と題する一冊の本である。アメリカ留学を控えた女子高生の英語がまったく通じない発音だったというショッキングな話から始められ、自身の英語塾の、跳んだりはねたり、生き生きとした英語学習の実態を描き出す。発声は腹式呼吸で、英語は自他を明瞭にわける思考を土台にしている、などと具体的な事例をもとに明快に指摘。さらに外国人とのコミュニケーションの問題点と適切な対応など、多くの読者に新鮮な衝撃を与える。その背景には日本を取り巻く環境の変化があった。海外旅行を例にとれば、船からジェット機の時代になり、一般の人にも無縁なものではなくなってきた時代である。英語学習においても、音声をともなう勉強といえばラジオ講座が一般的な時代が過ぎ、録音機器が普及して個人使用が可能になる時代でもあった。時代の変化と英語教育との落差を無意識に感じていた読者層は、この本を読んで「なるほど、そういうことだったのか」と目からうろこが落ち、違和感が爽快感に代わり、ベストセラーとなる。どんな人が書いたのかと末尾の著者略歴を見ると「1925年 福岡市に生まる 1928年 ソ連に行く 1938年 帰国 1956年渡米 1965年 帰国 現在 主婦 2児の母」とある。週刊誌は著者の中津燎子氏とその周辺の情報を取り上げ、総合月刊誌や専門誌は作家、評論家、言語学者などとの対談記事を特集する。ELECは機関誌の『英語展望』に研修部山本庄三郎部長の詳細な書評を掲載する。また8月には後述するように、著名な発言者による英語教育に関するシンポジウムを開催するが、中津氏は歯切れの良い弁舌で参加者を魅了する。これを契機に著書と雑誌記事に加えて聴衆に直接語りかける講演活動を全国各地で展開し、日本人の英語観に少なからず影響を与えることになる。
『なんで英語やるの?』現象あるいは中津燎子旋風ともいえるブームが全国を席巻するのとは対照的に、もう一つの1974年の大事件である「平泉試案」は地味なスタートを切る。自由民主党に国際文化交流特別委員会というのがあり、4月に公聴会が開かれる。そこに提出されたのが「外国語教育の現状と改革の方向 一つの試案」。作成者は参議院議員の平泉渉(ひらいずみ わたる)氏で、通称「平泉試案」と呼ばれることになる。この段階で「平泉試案」を英語教育廃止論と認識し、危機感を持って受け止めたのがELEC出版部長の串原国穂(くしはら くにほ)氏である。
21世紀の今日「英語教育廃止論」などと言われれば、時代錯誤の極みとして異様な感じがするだろう。しかし1974年からさらに半世紀前の日本では、国家主義の伸張と排外主義の高まりの中で英語教育廃止論は説得力を持って提起され、太平洋戦争中に英語は「敵性語・敵国語」として排斥されたという。戦後は一転して義務教育となった中学校で英語が教えられるが、決定的な教員不足など混乱した状況が続く。また、一生外国人と話す機会はないと思われる生徒に対して何故に英語を教える必要があるのか、という全国からの疑問に文部省の関係者は答えに窮する。1970年代とは、英語教育が否定的な過去を引きずるとともに国際化の現実と交錯する過渡期だったといえるだろう。
ともあれ「平泉試案」のポイントは
現状認識:
中学高校の外国語教育が主に英語になっていることは妥当。
英語教育の成果があがっていないことは明らか。
国民に膨大な時間とエネルギーの浪費を強制している。
しかしながら日本にとって少数の英語上級者は必要不可欠。
解決策:
一部の人に徹底訓練を行い、その他大勢は英語学習という報われない苦役から解放されるとよい。
と要約できる。具体的には
1)外国語能力検定試験を実施して合格者を「技能士」とする。
2)高校段階で一部の学生に、毎日2時間以上の英語授業と毎年1か月以上の完全集中訓練を実施する。
他の学生は英語の授業がゼロとなり、英語は大学入試から除外される。
3)中学段階では、現行の中学1年修了レベルの「英語の基本」および「世界の言語と文化」という教科を新設して教える。ということになる。
ELEC出版部は、広く「平泉試案」の存在を知らせ、英語教育廃止論としての本質を明らかにし、警鐘を鳴らすという「反『平泉試案』キャンペーン」に着手する。
「平泉試案」をめぐる英語教育論議
「平泉試案」を知らせる活動として英語教育に関するパネル・ディスカッションを企画し、8月に開催する。発言者として、まずは当の平泉渉氏。次いで、文化人類学という新しい研究分野を背景に現代社会を考え、英語教育にも積極的な発言を行い、また「同時通訳の神様」として知られる國弘正雄氏。そして話題の中津燎子氏。ちなみに中津氏は、父親が旧陸軍の情報官だったので、当時のソ連のウラジオストックで少女時代を過ごしている。ロシア人、中国人、朝鮮人など領事館の使用人、運転手、料理人の子供たちとの、小さいながら多民族社会、複言語環境で育ったとのこと。そして英語の先生の代表として下村勇三郎氏(東京学芸大学附属竹早中学校)。下村氏は第1回のELEC英語教員講習会(1957年)修了生。その頃までの日本の英語教育は、『徒然草』や『枕草子』あるいは『論語』など古典文学や漢文学習に近い、文法説明と辞書を引いて読んで訳すことがすべてという傾向がみられた。下村氏はその後は講習会の指導員を務め、音声重視の授業の進め方を指導。また東京書籍の検定教科書の執筆者の一人でもあり、教科書を効果的に生かす授業の実際を全国の英語教師を対象に実演している。そしてイギリス小説研究と名翻訳で知られるが、大学英語教育学会(JACET)の会長なども務めたELEC常務理事の朱牟田夏雄教授(中央大学)に司会をお願いする。
聴衆は一般的に英語と英語教育に関心のある企業人、英語教師、学生だけでなく、「中津燎子親衛隊」ともいえる英語教育と学校教育に高い関心を持つ母親グループが多数結集する。討論は英語教育全般におよんで盛り上がりを見せる。ポイントを絞れば、平泉氏は当日会場で配布された「平泉試案」の全文をもとに説明。大多数の聴衆には初見で、講義を受ける学生のように静かに聞く。國弘氏は、経済成長を遂げた今こそ謙虚に世界との関係を考え、英語の重要性を認識すべきであること。英語教育界、英語の先生方も「英語」の文法、語法、正用法に終始することなく「世界」に目を向けてほしい。さらには教育全般の重要性を認識して予算措置を講ずることを主張する。中津氏は、一部の人に任せるのでなく国民一人一人が外国語を学ぶことは大事。外国語を英語に絞ることは疑問がある。受験のためではなく外国を知るための外国語教育を中学生という ”golden age” にこそやることの意味は大きい。また、外来語、カタカナ言葉があふれている現状では、その背後の外国語を知ることは必要と主張。下村氏は、中学英語の目的は目先の成果も大事だが、後々伸びるための自立的な基盤となる基礎の確立こそが最重要。加えてクラスサイズなどの教育環境の整備を要望。次いで質疑応答は多岐にわたるが、その中で複数の英語教師から「政治家は教育に口出しするな」、「『平泉試案』はエリート主義」などといった攻撃的な発言が詰問口調でなされる。平泉氏は「話せばわかる」という姿勢を保ち、一つ一つの指摘にていねいに反論する。討議の概要は、取材に来た英字新聞各紙、『時事英語研究』(研究社)ほかの英語雑誌で報告記事が載せられ、英語・英語教育関係者の間で「平泉試案」の存在が知られるようになる。
続いて10月に國弘正雄氏の司会による第2回のパネル・ディスカッションを開催する。平泉氏は、「試案」に対する批判と疑問への反論と再説明。山岡清二氏(国際問題評論家)は、国際的に活動する日本人ジャーナリストの英語力の質とレベルの実態。小笠原林樹氏(文部省教科書調査官)は、英語教育改革の一般的な阻害要因を列挙。田村泉氏(都立駒場高校教諭)は、入試から英語を外すのではなく音声を入れる、教員養成と現職研修の充実など、総合的な展望をもとに教室現場に即した地道な改善が必要、等の発言がなされる。
『英語展望』は上記パネル・ディスカッションを随時再録するとともに、鳥居次好教授(静岡大学)、伊藤健三教授(立教大学)、大村喜吉教授(埼玉大学)による、それぞれ英語教育の基本理念、教授法、英語教育史から見た「平泉試案」への批判的な論考を掲載する。また、小川芳男教授(東京外国語大学)と平泉氏との対談を企画したが、「英語教育は全員にすべきか・・憲法違反か否か」をめぐり議論が熱を帯び、さらには気まずい雰囲気となり、掲載しないことになる。その他にも、平泉氏の「実用英語」に対抗するには「教養英語」となるが、その代表的論者として外山滋比古教授(お茶の水女子大学)に執筆を打診するも断られる。
ともあれ平泉氏は、英語教育界の大御所である小川芳男大先生をも「論破」し、自信を深める。出版部長との雑談で「串原さんも微分積分で苦労したでしょう、理解できましたか? しかもその後何の役にも立っていないでしょう」と英語に続いて「数学の平泉試案」を考えようという勢い。ELECとしては「平泉試案」をどう扱うかという基本方針の再構築に迫られる。
その折も折り、文藝春秋社の月刊総合誌『諸君!』1975年4月号に渡部昇一教授(上智大学)の「亡国の『英語教育改革試案』」が発表される。
もう一人の立役者 渡部昇一教授の登場
中津氏や平泉氏と異なり、渡部教授とELECとの関係は長期にわたる。ELECは1963年に法人化して以来、活動を大はばに広げる。出版部門でも中島文雄刊行物委員長のもとに英語教育だけでなく、ことばと文化、国際理解などに対象を広げ、國弘正雄氏や平野敬一教授(東京大学)、グレゴリー・クラーク氏(外交官、ジャーナリスト)ほかに『英語展望』(1970年に改称、それまではELEC Bulletin)および「エレック選書」等への執筆を依頼することになる。また、その頃大修館書店は日本の英語学研究の水準を示す全15巻の「英語学大系」の企画を進めていた。大系編集者の太田朗教授(東京教育大学のちに上智大学)はその第13巻『英語学史』の執筆を渡部昇一教授に依頼している。そういう経緯からELECの刊行物委員でもある太田朗理事の推薦で渡部教授はELECの執筆陣に加えられている。渡部教授(当時は助教授)の最初の『英語展望』への寄稿は1970年秋号にさかのぼり、最後は『北の街の英語教師―浜林生之助の生涯』(東博通著、開拓社刊)の書評を2008年号に執筆している。また「ELEC創立50周年記念号」(2007)に「祝辞」を寄せている。
渡部教授は英語教育専門誌には文法重視の論考やエッセイを執筆していたが、一般読者対象の総合雑誌に寄稿し始める。雑誌論文を集めた評論集『文科の時代』(文藝春秋社、1974)の各編は、時事的な話題を取り上げ、歴史的エピソードを縦横に引用して文明論風にまとめたもので、独特の見方を示して注目される。次いで第二弾『腐敗の時代』を準備するが、そこに収める一編として英語教育論を考える。ELECから送られてくる『英語展望』で「平泉試案」の詳細を知り、自論を展開するのに格好の「味付け」として着目する。話の節目で「平泉試案」の断章を抜き出し、断定的に全否定する筆法で「亡国の『英語教育改革試案』」を執筆する。その『諸君!』の広告が発売当日の朝刊1面下に載る。早速書店で購入すると、果たして「平泉試案」批判。ELEC出版部長が自宅に電話すると渡部先生が出る。『英語展望』への原稿執筆を打診すると二つ返事で了承し、「それにしてもELECは平泉試案に賛成ではないんですか?」、「いやいや、反対ですよ」、「そうですか。それはともかく執筆要領が決まりましたら教えてください」といったやりとり。ところが数日を経ずして渡部先生から「約束したのに申し訳ないが『英語展望』への執筆を辞退したい」との電話。事情を聞くと、渡部教授の英語教育論は発売当日から想定をはるかに越える反応。また、校正刷りの段階で平泉氏に見せたところ、反論を書かないわけにはいかないというので翌月号に掲載することになっている。さらに両者に追加の原稿をお願いし、最後に誌上対談を行う5か月連続の特集にすることになったという。
かくして、実際はさらに2か月のびて7か月連続となる「平泉・渡部 英語教育大論争」が始まり、読書界をにぎわすことになる。
(てらむら しげる)
参考文献:
中津燎子『なんで英語やるの? ある英語塾の記録』(午夢舘、1974/文春文庫、1978)
中津燎子・勇康雄「『なんで英語やるの?』を考える」(『英語教育』、大修館書店、1974年12月号)
『英語展望』1974年秋号、1975年冬号、春号(ELEC)
平泉渉・渡部昇一『英語教育大論争』(文藝春秋、1975)
伊村元道『日本の英語教育200年』(大修館書店、2003)
江利川春雄『日本の外国語教育政策史』(ひつじ書房、2018)
斎藤兆史『日本人と英語 もうひとつの英語百年史』(研究社、2007)
鳥飼玖美子『英語教育論争から考える』(みすず書房、2014)