広川由子(愛知江南短期大学准教授)
1. アメリカ対日英語教育構想と「ブライアント報告書」
筆者が「ブライアント報告書」を発見したのは2013年のことだった。ニューヨーク州タリータウンに位置するロックフェラー・アーカイブ・センターを訪問した時のことである。実は別の史料を求めて訪問したのだが、その際、幸運にも「ブライアント報告書」と出会うことができた。ところで読者の皆さんは、突然、「ブライアント報告書」と言われて戸惑っていることだろう。しかし後述するように「ブライアント報告書」はELEC成立史だけでなく日本英語教育史の一断面を成す重要な歴史資料なのである。本稿を認めたのは、「ブライアント報告書」の存在と内容を多くの方に知ってもらうためである。
この「ブライアント報告書」を理解するためには、戦前・占領期・講和後にわたるアメリカの対日英語教育構想と戦後日本の英語教育改革の実態を踏まえる必要がある。筆者は教育史・教育制度史を専門領域とし、とりわけ、戦後の義務教育における英語教育の成り立ちを、アメリカの諸施策の検討を通して解明してきた。より具体的には、戦後の新しい中学校(現在の中学校を指し、当時は旧制中学校に対し「新制中学校」と呼ばれた)に、どのようにして英語教育(正式には「外国語科」)が導入されたのかということの解明である。それは多くの英語教育史関係の文献において新制中学校で英語教育が開始されたという事実は記しているものの、それがどのようにして可能になったのかということについて言及していないためであった。
というのも新制中学校に英語教育を導入するためには、以下に記すようないくつかの難題を克服しなければならなかったからである。新制中学校は国民学校高等科(以下、高等小学校)を母体に成立した。高等小学校は6年制の初等科の上に設けられた2年制の学校であくまで初等教育機関だった。極めて少数の先進的な高等小学校を除き、大半の高等小学校では英語教育は実施されていなかった。したがって人的・物的にも新制中学校の英語教育を成立させる基盤が不足していたのである。依拠するものがほとんど存在せず、しかも教育財政が逼迫するなか、新制中学校の発足当初から外国語科が開始されたことは驚くべきことなのである。
この事象を紐解くため、筆者はGHQ民間情報教育局(CI&E)の諸施策やCI&E政策の主たる淵源であるアメリカ国務省の対日戦後計画について詳細な調査・検討を行なった。その詳細は紙幅の関係上省略するが、簡潔に言えば、日本の中等教育を大衆的なものにつくりかえようとする国務省の対日戦後計画が具体化された結果だったのである。またこうした改革の背景には20世紀初頭に起こった国際的な言語改革の潮流が生じており、英語教育の世界的拡大傾向があった。ロックフェラー財団が行なった対外的な英語教育支援もこれを促した。
改革当初、日本の文部省は大衆的な英語教育を普及させようとの考えはなかったとみられ、新制中学校の英語教育が劣悪な条件を乗り越えて成立したのは、上記のような基盤がととのったからである。単なるアメリカの押しつけではないものの、占領を機に義務教育における英語教育制度を確立させたアメリカ側の戦略性は否めないと筆者は考えている。
占領終結後も日本に影響力を及ぼしたいと考えるアメリカ国務省は1951年1月にジョン・F・ダレス¹を団長とする講和使節団を日本に派遣した。ダレス講和使節団の役割は日本との間で締結される講和条約の下地を整え、日米二国間の協力を推進する方法を探求することにあった。ダレスに講和使節団への参加と日米文化に関する研究報告書を作成するよう要請されたジョン・D・ロックフェラー3世は顧問として使節団に加わり、帰国後、「米日文化関係」と題する報告書(以下、「ロックフェラー報告書」)を作成しダレスに提出した²。「ロックフェラー報告書」の作成には、対日戦後計画を立案した国務省メンバーが関与し、英語教育改善プログラムの実施を掲げ、日本に「英語教育センター」を設立し最新の英語教授法と教材を開発し活用することが盛り込まれた。
しかしアメリカ政府が直接的に日本の英語教育改革を行なうことには一定の懸念もあったようである。「ロックフェラー報告書」には、「日本人は広範な英語教育改革をプロパガンダと受け止める傾向はない」と日本側の反応に注意を払う部分がある。結局、最終報告書では英語教育改善プログラムは削除された。民間財団に委ねることを得策としたのであろう。1954年7月、ロックフェラー3世は自身が理事を務めるジャパン・ソサエティー³に日本の英語教育の実態調査を行なうことを提案した。そして「第二言語」としての英語教育を専門とするコロンビア大学ランゲージ・センターのウィリアム・C・ブライアント・ジュニアに調査が委嘱された。ブライアントは1954年10月から3か月滞日し、東京や大阪などの大都市に加え地方にも足をのばし新制中学校の英語の授業を視察して回った。調査結果は90頁から成る報告書にまとめられ勧告が付され1955年付でジャパン・ソサエティに提出された。これが「ブライアント報告書」である⁴。
これまでにも「ブライアント報告書」について言及した研究はいくつか存在する。たとえば、Lynn Earl Henrichsen, Diffusion of Innovations in English Language Teaching: The ELEC Effort in Japan, 1956-1968, (Connecticut, Greenwood Press, Inc., 1989)である。Henrichsenは「ブライアント報告書」に触れているものの、財団内部で否定されたものとしてその中身は詳しく検討していない。一方、加藤幹雄『ロックフェラー家と日本』(岩波書店、2015年)は、「ブライアント報告書」をELEC設立につながる重要な報告書と位置づけ、この報告書において文法訳読法から「オーラル・アプローチ」への切り替えが提案されたことを高く評価している。これらの研究成果には大きな隔たりがあり、おのずと「ブライアント報告書」そのものの検討が必要であることがわかる。「ブライアント報告書」は、ELECの成立史を正確に描くために欠くことのできない重要な歴史資料なのである。
2. ブライアントの目に映った新制中学校の英語教育
さて、以下ではブライアントの目に映った新制中学校の英語教育がどのようなものだったのかを「ブライアント報告書」の記述にそって紹介していこう。まず「イントロダクション」では日本の英語教育の概要が示されている。「日本の学校は4月に始まり、12歳から18歳の生徒700万人が週5時間、英語を学習している。生徒は8万5000人の教員に教わるが、教員のほとんどは、英語母語話者の話す英語を聞く機会のなかった人たちである」と英語教員の経験を問題にしている。
そのうえで1951年刊行の『学習指導要領 外国語科英語編(試案)』の目標部分を引用し、「私たちは、日本の復興直前に入念な研究を行なった日本の29人の優秀な教育者によるこの明確な目標に、それ相応の重みを与えるべきではないだろうか。私たちは、近い将来、9千万のアジアの人々が西洋の理念と倫理を吸収することの西洋世界にとっての重要性を疑うことができるだろうか」と『学習指導要領』にお墨付きを与えることを自分たちの使命とする。それとともに、日本を含め非英語圏の人々が英語を学ぶことの西洋世界の利益もあからさまに表明している。これらの記述から、この調査が指導者的立場からなされたことがわかる。
新制中学校の英語教育については以下のような記述が注目に値する。「日本の子どもたちはアメリカのジュニア・ハイスクールに当たる中学校の最初の学年(第1学年)で英語学習を開始する。中学校では選択教科として英語の他、職業科、家庭科が置かれているが、生徒10人中8人は英語を選択している。このことから中学校の生徒は英語の知識が必須となる高等教育の潜在的な入学者である。そして、少なくとも英語教育がますます要求されるようになっている高等学校の〔暫定的〕入学者だといえよう」と、教育課程上の英語の時間数が占める割合の大きさや、新制中学校の英語教育とその後の教育機関との関連に言及しており興味深い。
また文法訳読法から徐々にオーラル・アプローチへの転換がなされようとしている事実については、「英語の授業における重大な問題に、質の良い教員の不足という問題が挙げられる。現在の教員の多くは、オーラル・アプローチを効果的に用いるための、英語を自由自在に使いこなせる十分な能力を持たない」と厳しく批判している。ブライアントは、質の良い教員を、オーラル・アプローチを効果的に用いることができる者とみている。そして「このような状況下、教員が口頭の質問を交えながら行なう授業は極めて限られてくる。教員は、生徒にグループで練習させたり、基本的な書き方を宿題として出したり、あるいは機械的な記憶を課すことになる。(中略)語彙は1週間に平均して20語から25語が割り当てられる。時に一度の授業で35語もの単語が課されることもある」と、口頭練習に割かれる時間が少なく記憶に偏重した教育方法を批判している。さらにブライアントは「生徒は、不完全な環境にさらされ苦痛を感じていたに違いない。教員は英語の雰囲気を維持することができず、多くの生徒で膨れ上がったクラス編成は、実際には授業以外で英語を使用することがないことを知っている生徒たちの学習過程を、単調で退屈な、より非現実的なものにしてしまう」と条件整備の劣悪さも指摘している。これらの記述から「ブライアント報告書」が英語学習者の立場に立つものであり、日本国内では見えにくい問題を可視化していることがわかる。
最終的に勧告部分では、「生徒と教員はいずれも、漠然とした文化の獲得という英語教育ではなく、コミュニーションの道具としての英語の実際の必要性によって強い動機を与えられなければならない」として、日本に「英語教育センター」を設置することが提案されている。ここに前述の「ロックフェラー報告書」で示された「英語教育センター」の設置構想を継承する意図が読み取れる。
このように「ブライアント報告書」は新制中学校の英語教育を「使える英語」の習得へと転換させることを「改善」とし、オーラル・アプローチへの転換を勧告していた。まるで現行の英語教育推進政策を先取りしていたかのようである。「英語教育センター」の組織化においては、既存の団体から人選するものの、日本発祥の英語教育諸団体と一線を画した団体を作ることが目指された。
3. 「ブライアント報告書」とELECの関係
1955年7月、ブライアントとともにロックフェラー3世と国務省のメンバーたちは、「ブライアント報告書」を検討していた。かれらは「ブライアント報告書」に賛同し、コロンビア大学への助成を通して再びブライアントを日本に送り日本の英語教育改革に着手したい考えだった。ところが、「ブライアント報告書」に問題が浮上する。ロックフェラー財団の顧問弁護士、ドナルド・マクリーン・ジュニアは「ブライアント報告書」を憂慮していた。それはブライアントが「日本の英語教育は数十年おくれている」⁵と発言したことや、かれが日本人の機微を理解できず日本の英語教育(研究)者たちの怒りを買ったからだった。マクリーンは外国人に英語を教えることを尊重することができるアメリカ人を探すことが賢明だとして、助成が日本人に偏見を抱かせてしまうことの危険性も示した。ブライアントに代わる人物が模索され、コロンビア大学への助成は延期された。
それだけでなく「ブライアント報告書」は日本側でも問題になった。ELEC設立の日本側のリーダーである松本重治は、「私たちはこのような計画を円滑に実行するためには、慎重なアプローチが必要だと確信します。なぜならこの計画は共産主義の要素の強い日本教職員組合により利用されるという政治的危険性があるからです。いずれにしても日本の英語教育の改善は日本の高名な指導者によって開始されなければなりません」⁶と進言した。
その後の1956年3月にはブライアントと「ブライアント報告書」は完全に否定されたものとみられる。それはアメリカの言語学者、レオン・E・ドスタートの意見に端的に表れている。ドスタートは「〔報告書は〕多くの重要なポイントが無視され浅はかであり、教員の訓練に対する情報提供もなされていない」と厳しいコメントを書き送った。
こうした事態を収束させたのはロックフェラー財団のオフィサー、チャールズ・B・ファーズだった。かれは日本の英語教育改革には継続と粘り強さが必要であること、国際会議を開催しミシガン大学で構造主義言語学を専門とするチャールズ・C・フリーズを招聘することが賢明だと考えた。その後1956年7月に国際文化会館においてELECが発足した。
ところで「ブライアント報告書」はその後どのように扱われたのだろうか。否定されたものゆえに「ブライアント報告書」はELECの設置とは無関係なのだろうか。事実はそうではなく、否定されたはずの「ブライアント報告書」はその後も財団内部で有効活用されたのである。1960年3月28日付のジャパン・ソサエティへの報告書(草案)には次のような記述がある。
日本は、米国・欧州諸国のみならず、アジア諸国との政治・経済・文化的コミュニケーションの手段としても英語に依存している。日本で英語は1世紀前に公式な第二言語として受容され、高等学校では必修教科として教えられている。さらに大学を通して7年間も学ばれる。ところがその成果は上がっていない。その大きな原因は教授法にある。オーラル・アプローチより文法訳読法が強調され、大学卒業者は英語を読めるようにはなるが英会話ができるようになる者は稀である。このことは日本では全く関心事となっていない。しかし、日本は最早、孤立状態にはないのである。(中略)経済文化振興協議会⁷は日本の英語コミュニケーション問題に何が有効かを見極めるために、コロンビア大学のブライアント教授を日本に派遣し現地調査を行なった。ブライアント教授による調査は、日本人が最初に外国語教育を受ける中学校における英語教育を改善することの必要性を示すものだった。この調査報告を受けた後の1956年9月には国際文化会館において英語教育専門家会議が開催された。経済文化振興協議会は、この包括的な専門家会議にフリーズ、トワデル、ホーンビーを送って支援した。その直後、日本英語教育研究委員会が設立された。それは、現在、一般的にはELECの名で知られている。東京にあるこの団体は、1956年12月以来、日本人によって運営され資金提供もされている。⁸
以上から「ブライアント報告書」が有効なものとして位置づけられていたことがわかる。しかも「ブライアント報告書」をもとにELECが設置されたことも見て取れる。
否定された「ブライアント報告書」とELECの関係を考える時、そこにはアメリカの意図が貫かれたという事実が見えてくる。ELECの設置は「フィランソロピー」の結果ではなく「フィランソロピー戦略」の結果だったのではないか。つまり、アメリカ側の世界戦略の延長線上にあったということである。筆者にはそのように思えてならない⁹。
しかし、「ブライアント報告書」が日本国内では見えにくい日本の英語教育特有の問題を可視化したことも事実である。「ブライアント報告書」は、今、読んでもその斬新さに感動さえ覚える。それゆえ「ブライアント報告書」は、ELEC史だけでなく日本英語教育史の一断面に位置づけられるべき歴史的遺産だといえよう。
【注】
¹ ダレスは、1935年からロックフェラー財団理事、1950年には理事長に任命され、1953年にアイゼンハウアー政権の国務長官に就任した(松田武『戦後日本におけるアメリカのソフトパワー』岩波書店、2008年、132頁)。
² Japanese Peace Treaty – Dulles Mission, REPORT TO AMBASSADOR DULLES, Folder 440,Box 46, Series 5, FA789A, Rockefeller Family Public Relations Department papers,Rockefeller Archive Center. このフォルダーには、当該報告書のドラフトが複数収められている。
³ 1907年に創設されたジャパン・ソサエティーは日米交流の促進を目的とする民間組織で、日米開戦とともに閉鎖されたが、講和後はロックフェラー3世の財政支援のもとに活動を再開した(藤田文子『アメリカ文化外交と日本:冷戦期の文化と人の交流』東京大学出版会、2015年、217頁)。
⁴ “ENGLISH EDUCATION IN JAPAN: A Survey with Recommendations”, By William Cullen Bryant,Ⅱ, Chairman, American Language Center, School of General Studies, Columbia University, Prepared for the Japan Society, Inc., New York, 1955” , Folders 452-453, Box 50/ Folders 454-455, Box 51, Series 1.3, RG5, John D. Rockefeller 3RD Papers, Rockefeller Archive Center(Tarrytown, New York).
本資料には「ブライアント報告書」以外に、助成に関する多くの資料が含まれる。
⁵ 語学教育研究所『語学教育』第228号、1955年。
⁶ Matsumoto to Mclean, December 22, 1955, Folder 452, Box 50, Series 1.3, RG5, John D. Rockefeller 3RD Papers, Rockefeller Archive Center.
⁷ ロックフェラー財団およびジャパン・ソサエティーの関連機関。ロックフェラー財団はこの機関を通してELECへ助成を行なった。
⁸ Draft, March 28, 1960, Box 61, RG8, John D. Rockefeller 3RD Papers, Rockefeller Archive Center(Tarrytown, New York).
⁹ 財団の助成は1974年に終了。
(ひろかわ よしこ)