新刊書評:『若林俊輔先生著作集②』 若林 俊輔 著

亘理陽一(静岡大学准教授)

私は,若林先生に直接お目にかかったことはない。他の人が思い出として語るエピソードや文章から人柄をうかがい知ることはできるが,私にとって若林俊輔という人は,『英語は「教わったように教えるな」』(研究社, 2016年)や著作集で写真を拝見するまでは文字通り顔の見えない存在であった。学生時代に至っては,偶然出会った『これからの英語教師』(大修館書店, 1983年)と『無責任なテストが「落ちこぼれ」を作る』(大修館書店, 1993年)の著者として,主張が明快で,思っていたことをズバッと言ってくれる人(が英語教育界にもいるんだなあ)という程度の不遜な態度で私淑していたに過ぎない。そういう私に,ここで『若林俊輔先生著作集②: 目的論・学習者論・音声指導・文字指導他』の紹介をする資格があるかどうかはわからないが,直接の薫陶を受けていない者だからこそ読み取れることや言えることもあるかもしれない。以下では,若林先生の論稿の特徴と合わせて,現在の,そしてこれからの英語教育に対する示唆を私なりに読み解いてみたい。

A5判 296頁
本体 1,200円
一般財団法人語学教育研究所 

若林先生の主張は古びない。それは本書に収録された1967年から98年の論稿間においてもそうであるし,2020年の現在においてもそうである。

例えば若林先生は,第2章に掲載された今から33年前の雑誌記事(「英語嫌いはどこから?」)において,「『英語嫌い』の問題は,我々英語教師がいまもって英語教育を『国民教育』としてとらえていないところに原因がある」(p. 50)と言う。この一文で言わんとしていることは,それよりさらに15年遡った第7章の「言語活動は可能か―週3時間制で何ができる―」を読むとよく理解できる。

当時の中学校における時数削減や高校・大学における選択科目化の方向に触れ,若林先生は,「義務教育段階への英語の全面的導入は,英語を限られたエリートだけのものにせず,全国民に開放するという,非常に大きな意味を持ったはず」(p. 278)で,そもそも英語学習に直接の実用性を求める議論自体が不毛だと憤る。すべてに「実際の役」を考えるのであれば,他の教科の内容も大部分は不要になってしまうというのだ。少し長めだが続きを引用したい。

―にもかかわらず,私は,これらのすべてを必要であると考える。役にたとうがたつまいが,こういうものの学習は,学習者の心に確かな影響を与えるものである。教育の真髄は,人間の心を豊かにすることにあると考える。役にたつかたたないか,それは,教育自体が目標にする必要はない。

私の言いたいのは,「英語教育」はあまりにも役にたつかたたないかの議論に振り回されすぎたということである。英語の学習は,確実に日本人の心に影響を与えてきた。外国語を知ることによって,日本人の心は豊かになってきた。指導要領の言う「言語活動」をやろうがやるまいが,若い世代の日本人が英語に触れることによって,ある結果を招来したことは確かである(p. 279)。

「役にたつかたたないかの議論に振り回されすぎた」例として,昨今の「英語教育改革」の取り組み,とりわけ大学入試における民間試験導入の問題を想起することはあまりにも容易い。しかしこの間,若林先生のように「教育の真髄」から正面切ってそれを語る議論には出会わなかった。第6章解説の言葉を借りれば,若林先生にとって英語教育とは「外国語(ここでは英語)を通して,世界を拡げ,新しい世界を知ることの喜びを感じてもらうためのもの」(p. 274)である。本当に「外国語を知ることによって,日本人の心は豊かになってきた」のかどうか,それが経験的な問いとして成り立ち得るかは微妙なところとは言え,半世紀近く経っても,われわれは「国民教育」としての英語教育の目的論を十分に深められていない。

学生時代に読んだ2冊が自分でもそれと気づかぬ内に私の血肉となっている部分もあるだろうが,著作集を読んでいると,自分が新しいことを言ったつもりで,若林先生が同じことを(別の文脈で)既に(もっと痛烈に)指摘していたということが幾度と無くある。

若林先生の説明は具体的でわかりやすく,それゆえに手厳しい。本書の個人的な白眉である第2章の,例えば「生徒の学習を妨げる指導」の節のタイトルを並べるだけでも,よほど鈍感でない限り,襟を正さない英語教師はいないだろう。曰く,「不要なものにこだわって事をめんどうにする」「安易に流れることを嫌って事をむずかしくする」「自分にできることはやさしいと思い込んで生徒に無理を強いる」「固定観念にとりつかれてそれを生徒にも強制する」「視野を広げているつもりで少しも広げないでいる」。耳が痛過ぎて涙が出てきた。

上記は英語教育にとどまらない一般性を有している。その際重要なことは,それが机上の説教ではなく,全てに(その当時の)英語教育の具体的な事象が伴っているということだ。例えば1点目について,中学校学習指導要領におけるwh疑問文の扱いに言及し,「これらは何も中学校で教えることはないのではないか」(p. 42)と論じる。「“Is this a … er …?”と言いよどみさえすれば,相手はきっと“A computer”と教えてくれるだろう。“What is your name?”とか“Where do you live?”など,これはまるで警察の取調室の訊問みたいで,なんともいただけない。“My name is Wakabayashi.”と名乗れば相手はきっと名乗ってくれるであろう」(p. 42)。個別を通して普遍を語るとはまさにこのことだ。「英語を使って何ができるようになるか」を重視しているはずの新学習指導要領の議論において,言語材料としてwh疑問文のほとんどが小学校に降りる話は幾度となく耳にするにもかかわらず,上記の若林先生のような指摘はついぞ聞いたことがない。このまま行けば,住んでいるところなどお互いに分かりきった児童同士が,「取調室の訊問」を日本全国で繰り広げるのだろう。空疎な「慣れ親しませる」の文言に慣れ親しんでしまった先生がたはぜひ,本書p. 258の記述を噛み締められたい。

先ほどの目的論の引用および紹介で,若林先生が教養主義的な目的論者だと思った人がいるかもしれない。全く違う。「英語を教える,とはどういうことか。それは,英語が使えるようにしてやる,ということである。中学校3年間を終えても,高等学校の3年間を終えても,さらに大学で英語を習っても,どうにも英語が使えない,というのは異常事態なのではないか」(p. 58)とまで言い切っている。こう書くと今度は,厳しいスキル主義者だと思うかもしれない。違う。「学習は楽しいものでありたい。苦役であっては迷惑である。苦役に進んで従事する人もいるかもしれないが,それは常人ではない。生徒たちは正常人である,だから,楽に楽しく易きにつかせなければならない。そして要は効果を挙げればいいのである」(p. 44)。若林先生のこのような立場が,上述の,具体的な文脈の中で言語知識・技能を捉える眼差しをもたらしている。それは,第4章に収録された1967年の連載「英語のイントネーションについて」から一貫している。一方,後を引き継ぐ英語教育界が若林先生から何を学んできたのか,若林先生が「面白く楽しい授業」とみなす,「わかり,そして,できるようになる授業」(p. 54)をどれだけ紡いできたと言えるのか,本書を通じて厳しく問われるべきだろう。

若林先生の議論はしつこい。こう書くと各方面に怒られそうだが,第3章の視聴覚的補助手段論や第4章の音声指導論,あるいは様々な論者への反論を読んでいた際にしみじみ感じたのは,細部に渡る「しつこさ」である。

もちろん良い意味でそう評している。なぜならそのしつこさは,徹頭徹尾,学習者の側に立った英語教育的信念によるものだからだ。例えば,発音記号廃止論者であるからこそ,発音記号の名前や表記法について教授・学習の観点から詳細に検討する。「ある1つの語の発音はただ1通りでなければならないといった態度で生徒に対すること」を戒め,「発音を表すにはただ一つの方法しかないと思い込ませるような指導は絶対避けるべき」(p. 143)とする英語教育的信念は,今もなお(今こそ)広く伝える価値がある。その一方で,カナ発音表記については,所詮,近似音しか表せないのだからと,学習者の発音の補助になりさえすればよく,その厳密な正確さにこだわらない。

若林先生の,言語知識・技能やその教授法についての微に入り細を穿つ検討は,「言語の教師であるからには,言語がかかわる分野について,そのすべてにかかわる義務がある。その一部でも省略するわけにはいかない」(p. 58)という矜持から来ている。畏れ入るより他ない。しかし私が指導学生だったら,お酒がだいぶ入ったところで,「でも先生,世の英語教師全てが若林俊輔じゃないんですよ!」と苦言を呈し(て叱られてい)たことだろう。なぜ議論がしつこくなるかと言えば,若林先生がそれだけ怒っているからである。「学校英語教育を不完全にしている元凶は,何よりもクラス・サイズである」(p. 289)という主張に同意する英語教師は多いと思われるが,その際同時に問われているのは,本書の各論のしつこさに耐えられるぐらい真面目に怒っているのか,ということなのだ。

とは言え,今日の状況から見れば批判的に読むべきところもある。例えば,「ローマ字に筆順はない」ということについて,歴史的に実際そうであるし,私も長年そう考えてきたが,指導上,理に適った筆順があるということは手島 (2019).『これからの文字指導: 書きやすく 読みやすく』(研究社)によって示されている。視覚的補助についての「絵にするものは,生徒が直接体験的に知っているものに限るべし。もし,どうしても直接体験的に知っていないものを提示するならば,絵を見せると同時にことばをつくして説明すべし」(p. 65)という原則は今も有効性を失っていないと思われるが,動画を中心に様々なメディアを通じた学びを身体化している今の学習者の前では,第3章の議論は当然見直しが必要である。中学校の週3時間化を苛烈に批判し続けていた若林先生なので,本書には,「週3時間で一体何ができるんだ」という,ある意味で悲観的にも聞こえる主張が垣間見えるが,その1時間(年間35時間)の差で実際に失われたものが何だったのか検証すべきであるし,週4時間に戻った現在,その1時間に見合う授業を具現化できているのかが,若林先生の主張に照らして改めて問われなければならない。

第1章を読めばわかるが,以上のすべてについて,若林先生は自分と異なる意見の存在を認めるし,議論をむしろ歓迎するだろう。問題は,若林先生と議論できるだけの経験と知識を持ち,主張を言葉にできる専門家が,今の英語教育界にどれくらいいるのかということである。それが心許ないからと言って,巨人の肩に立つことを諦めて,忘れ去っていいということには決してならない。そんな風に噛み締めて読んでいる内に,本書はボロボロになってしまった。

最後に,誤植がいくつか見られたので,書評子の責任として「細かく」指摘しておく(元の原稿のものか今回の編集にあたってのものかはわからない)。p. 167の3.5の節題は,「つづりがoの場合」ではなく「uの場合」。p. 190のdon’tのアポロストロフィがプライム(`)になっている。p. 280の「接続調」は「接続詞」の誤り。

(わたり よういち)