田中 慎也(元日本言語政策学会会)
§第1点描-日本語の表記改革提案-
戦後の連合国軍占領下における日本の教育改革が、アメリカ教育使節団報告書(昭和21年及び昭和25年)に基づき実施されたことはよく知られているが、使節団の改革案が実施されなかったものに、「国語である日本語の表記文字の漢字、ひらがな、カタカナを廃止しローマ字のみにすること」がある。
これについては連合国側の某国主が日本の漢字文化の伝統を尊重するようにと提案しそれによって日本の伝統文字文化が守られたという説がある。
過去において、この文字文化が様々な日本の文化遺産を生み出したことも確かであろうし、今後も、世界でもまれな文化を生み出す源泉となりうる可能性もある。
人の名前を、表音文字を使う欧米人は耳で名を覚え、表意文字を使う日本人は目で名を確かめると言われるが、漢字かな交じり文は、右から左の縦書き文、左から右の横書き文、ひらがな、カタカナ、漢字そして時にはローマ字交じりの文、氏名表示法の違い、ローマ字の縦書き広告塔等、近年のカタカナ語の氾濫と相まって、日本の文字文化は一層多様化の様相を呈しており、様々な聴覚、視覚機器開発と相まって、若い人々の感覚器官の発達動態にも影響を与える事は確かであろう。
スマホ保持も許されるようになってきた日本の子供、ローマ字文化の欧米系諸国からの日本人帰国子女、他方、複数の公用語を持つ多文化・多民族社会から来日するアジア系外国人子女への初等教育段階にとって、この日本の文字文化を<+>と採るか<->と採るかで、小学校英語教育プログラムも多様化せざるを得なくなるであろう。ここはしっかりと、日本の文化的遺産を活用した緊急の政策策定指向が求められる点ではなかろうか。
<参考資料>
田中慎也1978『教科別学習大事典1国語』旺文社「文字の発生と歴史」pp. 154~157
「NICT 情報通信研究機構」案内
§第2点描-小笠原島民の教育用語についての要望-
1979年4月、当時、玉川大学の英語学特講でウエールズの言語事情をテーマにした講義をしたのがきっかけで言語政策問題に関心が高まり、小笠原がアメリアから東京都へ返還時に、島民が小笠原の小中高の教育を、当面英語と日本語とで教育をしてほしいとの要望書を東京都教育委員会に提出したが、この要望は受け入れられず、日本語のみによる教育が行われたことを知り、返還10周年を迎えた小笠原に連休を利用して単身船で小笠原にケーススタディ調査に出かけた。
現地に着くと、港のそばに空き家となっていた8年制のラドフォード提督学校(返還当時幼稚園児4人、小学生33人、中学生23人計60人の島民の子供たちと米人子供たち9人の子供たちを米軍雇用の3人の教師が週5日教育を行っていた学校)があり、少し丘を登ると、第2次大戦の激戦をしのばせる破壊された砲台や、船体の半分が沈んだ船等が見える海が見え、静かな自然とは対照的な人々の生活環境が見えた。
翌日、小笠原返還前後、島の子供たちの日本語教育に献身的に従事された小笠原愛作牧師とのインタビューと、教育用語の切り替えが及ぼしたO一家の4人の子供たちへの影響を、母親のMさんから聞き取るという事例調査を始めた。
その結果、長男、Lは英語中心のため、当時の上智大学国際部にも馴染めずアメリカ本土へ、次男Wは日本語の読み書きが駄目なため、グアムのハイスクールでは優秀な成績だったにもかかわらず、就職先の小笠原支庁ではデスクワークが与えられず、土方仕事ばかりのため夜な夜な酒を飲んでは浜辺で一夜を過ごすという生活になっていること、3番目の長女Iは日本語と英語のバイリンガルが幸いして大手商社に就職し、幸せな結婚生活を台湾で送っていること、4番目の次女Mは英検の3級が精いっぱいで小笠原支庁舎に勤務し、お正月等に兄弟姉妹が家に帰ってきて喧嘩になったときなど、長男は英語で次女は日本語でまくしたてる等のエピソードも交えたお話を母親のMさんから伺ったのであった。その折、特に次男Wのことになった時の涙声は今でも耳に残っている。
本土の子供数から見ればわずかな子供数に過ぎなかったであろうが、東京都民となる小さな島の一人一人の子供たちにとって、返還は人生を左右する一大事件だったのであり、返還時の子供たちの年齢や環境をきめ細かく配慮した教育用語環境を与える政策を、どうして取れなかったのであろうかと、大波に揺れる帰路の船の中で、右に左に転がりながら、マジョリティ-がマイノリティ-を支える多文化共生の言語政策の知恵はいかにあるべきかを考える出発点となった。
<参考資料>
東京都:小笠原諸島現地調査報告資料第3号
田中慎也 1999『アジア英語研究』pp.65~68
『びいでびいで―東京都立小笠原高等学校五周年記念誌』
『びいでびいで―東京都立小笠原高等学校十周年記念誌』
§第3点描-在日外国人のための言語サービス-
私が「日本の地方自治体における在日外国人のための言語サービスに関する研究」を始めたのは李仁夏牧師への訪問からである。私が川崎市民代表者会議委員長としての李仁夏牧師を個人的にお訪ねしたのは1997年の夏だった。
気さくな先生は、在日大韓基督教川崎教会の内部を一通り案内されてから、しばらく礼拝堂の片隅で戦前・戦中・戦後の在日の人々の様々な経験を、静かな口調で淡々と話された。そして次に隣接する桜本保育園を案内された。
この保育園は1969年に在日大韓キリスト教川崎教会が母体となって開設され、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」を保育内容の基本理念とする、社会福祉法人青丘社の公認保育園であるが、保育室に案内されてまず目を引き驚いたのが、壁に貼られた様々な言語-日本語、ハングル、中国語、ブラジル語、タガログ語等々―であった。まさにマルチリンガル保育なのである。これは、もちろん在園児たちの民族や国籍を反映したものではあるが、手渡しされた「園だより」の以下のような囲い込み記事の中に、設立者の大いなるヴィジョンと情熱、そして21世紀の人間に求められる生き方の一端をかいま見たように思えたのである。
「-略-。世界に自分の国の国境を越えてよその国に移住する移民や、保護を求めて逃げていく難民が激増するようになってからボーダレスという英語の言葉がよく使われるようになりました。昔、朝鮮から多くの渡来人が日本に渡ってきて日本の仏教文化や学問、政治に貢献しました。今世紀の前半には、植民地統治という不幸な歴史の結果、多くの朝鮮人が日本に来ざるを得ませんでした。これもボ-ダレスの歴史と言えます。しかし、今わたしたち桜本保育園がめざす「ふれあい」教育は、どの国、どの民族の子供や父母も互いに尊敬をもって出会い、互いの歴史や文化から学ぶという意味でお互いがお互いに向かってボーダレスとなっていく新しいユニークな社会を造ろうとしている、と言えます。」
そして、最後に先生は、川崎市が建設し、その運営を青丘社に託されている「ふれあい館」に案内されたが、「ふれあい館」という名の意図するところは、日本人と韓国・朝鮮人を主とする在日外国人が、市民として、子供からお年寄りまで相互のふれあいを進める場になるように命名された、と説明された。
我々は、普段よく簡単に「共生の論理」とか「共生」とかを口にするが、「共に生きる」ことのすばらしさと同時にずっしりとした重さを、こんなにも強烈に感じたのは初めてであった。
外国人のための「言語サービス」と「共生の論理」とは深く連動している。「言語サービス」の調査研究をするものは、テーマの目新しさと同時に重さにも鈍感であってはならないであろう。何故なら、真の言語研究は原点の人間がなくては成立しえないからである。
幾重にもわたる、言葉に表しがたい困難な状況を乗り越えてこられた先生の表情の中に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」信じる者の不思議な安らぎと平安、そして静かな自信を垣間見たとき、「共生の論理」の原点の一つを確認できたように思えた。この確認後、私はJACET内に「JACET言語政策研究会」を発足した。
<参考資料>
研究代表者田中慎也 2000「日本の地方自治体における言語サービスに関する研究-21世紀多言語社会への助走―」JACET
田中慎也 2018『ロゴスに生きるイエス・キリスト』ヨベルpp.143~145
§第4点描-大学改革と大学入試制度-
余談になるが、何事であれ、改革動向には強力な行動力が必要である。私がJACETに入会したばかりで、いきなり、限られた時間内に「大学教育部会における審議の概要(1)及び(2)」に関する意見書を委員長として作成し、大学審議会大学教育部会のヒヤリングに出席して意見陳述が出来た理由として、①私の過去の行動体験、②出会い、の2点がある。
① というのは、私事にわたるが、昭和49年、愛児2人を同時に事故で奪われ、その結果浦和地裁と東京高裁における裁判経験、そしてその間の30人の人使いの荒い弁護士達との「子供を事故から守る会」の事務局長経験が、私のリーガルマインドと行動力を養ってくれたのである。
② というのは、実質的な46答申の起草者と言われていた文部省の高級官僚だった西田亀久夫先生との出会いから、高等教育に対する見識と事務処理能力の更なる力が養われたことである。
出会いというのは不思議なもので、後に私が言語政策学会会長時代に、民主党政権時代が到来し、厚生労働大臣となられた細川大臣が、浦和地裁時代の担当弁護士だったことから、私の支持政党とは関係なく細川大臣を通して中川文科大臣が紹介され、当時のブラジル移民の子供たちの日本語教育問題に、学会として深くかかわることが出来、中国の大平学校(注1)でも教えられた経験を持つ(故)水谷修名誉会長共々感謝であった。
本題に戻るが、明治以来日本の教育制度は、「上から目線制度」ではないかと思う。私自身小学校を除いて、中・高・短大・大学・大学院そして幼稚園園長を経験したが、給与体系も上から目線体系となっていた。1980年代、90年代の大学急増期には、多数の中高教員も大学教員として採用され、その後の大学院の整備に伴って、大学教授の大半は、国内外の大学院修了者や企業出身者が占めるようになった。しかし、大学受難の時代に於いて中高との更なる連携が求められる時代になっても、中高大の教育システム理解の不足や教員間意識の齟齬、そして何よりも大学教員の問題解決意欲不足や高等教育システムに対する無知が問題解決を阻害してはいないだろうか。これは、私が大学定員割れの大学のアドバイスをする「学校支援センターエイビック」の顧問をした経験から推察する意見である。
入試制度もその一例で、入り口(大学入試)を厳しくするだけでは、経済界が求める人材養成には必ずしもつながらないのである。むしろ、大学入学後の大学内における学生指導の在り方改革なくして、学習・研究成果を上げた学生を出口に送り出すことはできないのである。入試を厳しくするだけでは、学生は大学入学後、大学を、「学園ならぬ楽園」にする。中国、台湾、韓国では、すでにはるか前から出口を厳しくする政策をとっており、人口減少時代に於いては、「国力と国民の外国語能力とは反比例する」のであり、「日本の学生がたくましく国際社会で生きていける大学運営・国策設定」(注2)が早急に求められている。
最後に、永田恭介・国大協新会長の言葉をもって締めくくりたい。
「英語の4技能を測るために民間試験が導入されますが、地域や家計の格差による影響が懸念されます。これは大学入試全体の問題です。例えば、予備校に行かなくても済むような入試をどう実現できるのか。大学全体で引き続き考える必要があります」「もう一つ大切なことは、留学生や社会人などに限らず、これまで日本の大学が見いだせていない才能を発掘できるように入試を変えていくことです。どんな学生に来てほしいのかを決め、それに応じたカリキュラムと選抜方法を開発しなければなりません。特に理工系に進む女性がまだ少なく、優れた才能が埋もれている可能性があります。大学側が、もっとロールモデルやキャリアパスを発信すれば、呼び込むことができると期待しています」(2019年7月30日朝日新聞朝刊)
参考文献:
田中慎也 1994 『どこへ行く?大学の外国語教育』三修社
田中慎也 2007 『国家戦略としての「大学英語」教育』三修社
孫暁英 2018 『「大平学校」と戦後日中教育文化交流』日本僑報社
(注1) 大平学校とは、日中国交回復後、大平元首相を中心として推進された、日本語教師研修プログラムで、私が訪中時(2012)に水谷修先生と親しかった「中国日語教学研究会」会長となった徐一平先生も第2期卒業生である。
(注2) 千葉大「全員留学」義務づけへ。最新の一例。
(たなか しんや)