ELEC賞と私:英語教師として自分にできること

★シリーズ:「ELEC賞と私」★
2009年度A部門受賞

岩田 哲
北海道武蔵女子短期大学教授

 ELEC賞受賞のご連絡をいただいたのは2010年2月の中旬、月曜日の慌ただしい朝であった。当時私は高校3年生の担任をしており、生徒たちの進路、特に私立大学入試や間近に迫った国公立大学の2次試験対策などが頭にあり、にわかには事態を把握できない状況であった。そのような中、受賞式が東京で2月末にあるというご連絡をいただき、真っ先に考えたのは、卒業式に出られるだろうかということであった。というのも北海道の公立高校は毎年3月1日が卒業式で、その時期はまだ天候も不安定なことから、もし雪で飛行機が欠航すれば出席できなくなることが頭をよぎったからであった。そこで失礼にも咄嗟に受賞式には出席できない可能性が高い旨をお伝えしたことを覚えている。しかし、その後我に返り、このような機会はもう訪れないかもしれないと考え、天候に問題がないことを祈りつつ出席させていただく意向を改めてお伝えした。

 受賞論文は “Effects of Different Feedback on the Development of Writing Abilities among Japanese High School EFL Learners” という題名で、高校2年生を対象とした約1年間のライティング指導をまとめた実践論文であった。文法や構文を学習するための、特につながりのない和文英訳トレーニングではなく、ある程度まとまった英文を書く力をつけることが授業のねらいであった。高校現場での指導モデルがなかなか見つけられず、効果のありそうな指導法を求め、教材研究や担任、校務分掌業務、部活動指導の合間に、とにかく様々な教材や論文を読み漁った。最終的に行き着いたのはフィードバックの効果についてであった。フィードバックには英作文力を向上させる効果があるのか、学習者の情意面にも良い効果をもたらすのか、そしてもしそうだとするならばどのようなフィードバック方法が効果的なのか、さらに、教室現場で実践可能なのかということに非常に興味が沸いた。結局大半の生徒たちにはまず目の前に大学入試があり、その先にはそれぞれの生徒の進学後や就職後に必要とされるライティングがあると考え、長期的な展望を持ちつつ、短期目標もクリアするべく、知識、思考、技能のバランスをとった授業を目指すこととした。

 指導は前期、後期の約1年間という長丁場であったため、生徒にとって良さそうと判断したものは学期途中でもどんどん柔軟に取り入れていこうと考えていた。ただし、授業の中で生徒一人一人と口頭のやり取りができる時間は限られていることから、生徒のライティングには主に、文字によるフィードバックを通してコミュニケーションをとることとし、それについては年間を通じて行うこととした。ライティング力の推移を測る指標としては、民間の英語試験のライティング・セクションを利用することとした。これは当時勤務校が国の英語教育重点校(SELHi)に指定されていたことから、学校の取り組みとして定期的に民間の英語試験を実施していたためである。 

 実際の指導にはあらかじめ予想はしていたが非常に多くの時間を費やすこととなった。私が担当したのは、各トピックの導入活動とファーストドラフトへのフィードバックで、フィードバックを基に書き直したドラフトは、最後の仕上げにALTが文法などを修正するという手順で進めていた。ただし、ALTのフィードバックについてはさらに私から解説を行っていた。毎週80枚程度のドラフトに対して、文章構成へのフィードバックをし、気が付く限りの文法と語彙を直し、さらに内容などに関する感想を付けていた。どこにどのようなことを書いて、どう繋げていくかという構成のフィードバックには、なぜそうするのか、どのようなつなぎの言葉を入れるかといった説明を要するため、非常に時間も労力も必要で、後期半ばまでかかってようやく少しずつ向上の手ごたえを感じられる状況であった。語彙や文法のチェックも決して簡単なことではなかった。まず自分自身がネイティブではないために、すべての間違いに気付けるわけではなく、一度チェックをして返却前に再度見た時にまた間違いに気が付くということもしばしばであった。その他にも和製英語が使われていたり、英語で意味はなすものの、本来生徒が伝えたいと思っているであろう内容と齟齬がある表現になっていることも多々あり、英英辞典やコーパス、コンコーダンサーを利用したり、職業名等であれば、海外の会社のウェブページを調べるなどして、適切かどうかを確認する作業に非常に多くの時間が費やされたが、自分自身にとっても興味深く、非常に勉強になる時間であった。これらの作業はネイティブ・スピーカーならば劇的に少ない時間でこなすことが可能であったと思われるが、自分自身も英語学習者である日本人教員だからこそ、英語の表現としては意味をなさなくても、何を書こうとして、なぜそのようになったのかなどが理解でき、ネイティブ・スピーカーには手に負えない分野であろうと感じた。ここにこそ日本人教員が作文を担当する意義があると、自分を奮い立たせていたが、すべての間違いに気づけない、適切な表現や気の利いた表現に直せている自信がないなど、自分の力のなさに打ちのめされる日々でもあった。

 フィードバックに関しては、自分の学習者としての体験から強く思うことが二点あった。一つは語彙や文法の修正についてである。自分が高校生の頃は、個人的な体験ではあるが、インターネットもなく、英語を書く時には教科書にある表現を一部変更して使う、和英辞書で表現を調べた後に、英和辞書で例文を探して、いわゆる英借文をするなど、比較的使えるリソースが限られていた。日本語をそのまま英語に置き換えて不自然な表現になってしまうこともしばしばであった。そのためいつも英語のネイティブ・スピーカーや先生に間違いはすべて指摘して、説明と修正をしてもらいたいという願望を持っていた。決して完璧主義であったわけではなく、ブロークンでも会話で先生に意図が通じればそれだけでうれしく思い、自信にもなったが、部活動と同じく、とにかく純粋に向上したいという思いがあった。残念ながら学校にネイティブ・スピーカーの先生は存在せず、クラスサイズの大きさ、授業内で英文を書く機会の少なさなどからどれも実現しなかった。もう一点は内容へのフィードバックであった。これについても授業では構文やイディオム習得を主目的とする非常に短い和文英訳活動が中心で、自分で解答を見て、目標までの距離を測ることで完結しており、先生からコメントをいただく機会は非常に少なかった。それでも稀にいただく “Good” や、「頑張っているな」、のコメントが非常にうれしくやる気が沸いたのを覚えている。そこで、自分の授業では気づいた間違いはすべて指摘と修正を行い、内容に関しては英語であれ日本語であれ必ずある程度の長さのコメントを返すことを心に決めた。複数の論文を読んで分かったことは、次の様な指摘であった。間違い修正で真っ赤になった作文が返却されると学習者は圧倒され、学習できる精神状態にはならない。直接間違いを修正すれば、学習者はそれを何も考えずに写すだけで、学習は進まない。しかし、間接的な修正では英語熟達度の高くない学習者にとっては苦痛でしかない。書き直しを要求しなければ、そもそも訂正フィードバックも無視されてしまう。もっと大きな視点では、そもそもフィードバック自体が害である、いや有益であるという、TruscottとFerrisの有名な一連の論争もあったわけであるが、英語教員というよりは一人の教員として、フィードバックというコミュニケーションの意義を疑うことはなかった。

 はっきりと数値化できたわけではないが、生徒の英語の熟達度や性格によって、より有効なフィードバック方法は異なるという点は肌で感じた。教える側の効率を考えれば、すべての学習者に多大な時間をかけてこれらのフィードバックを行うことは、確かに最良の手段ではなかったかもしれない。しかし、生徒はいつ、どのようなことをきっかけにして英語に興味が沸き、学習意欲にスイッチが入るかわからないという思いが強く、多くの生徒の英語ライティング力養成には、無駄と評されるようなフィードバックになったとしても、やるべきだという信念にも似た考えが根底にあった。つらさがなかったと言えば嘘になるが、そのような中で自分の支えになったのは、生徒たちの英語力の伸びを感じたことよりも、生徒理解とコミュニケーションの視点であった。生徒のライティング力の向上に関しては、確かに肌で感じるものはあったが、それを感じられたのは本当にコースの終盤であり、変化は一夜にして起こるものではないと感じた。ただ、英語で書くということがそうさせていたのか、もともとの生徒たちの気質なのか、作文の内容は非常に個人的で率直なものが多く、生徒個々人の家庭環境や考え方を知るにはこれ以上のものはないと思えるほどであった。こちらもそれに応えるように自己開示をして、正直に考えをコメントしていたが、本当に交換日記のように感じることがあった。顔を突き合わせて話すのとは違った方法ではあるが、多くの生徒たちと信頼関係ができたと感じた。このため共通の間違いは全体でシェアしたが、作文内容は興味深いものの、個人的過ぎてシェアできない状況であった。この体験から、自分が教わったやり方で自分と似た学習者を再生産するのではなく、自分の経験や従来の方法に拘泥せず、また論文とのギャップにもあきらめずに、目の前の学習者にとってよりよいと思われる方法を試行錯誤することには意義があると感じた。生徒との信頼関係は、私の独りよがりか錯覚である可能性もあるが、それが自分自身のモチベーションになっていたことは確かな事実である。それがなければいい加減なフィードバックになるか、挫折していたかのどちらかであったと感じている。よい生徒たちに恵まれたことに心から感謝したい。

 ELEC賞をいただいたことは、私にとって決して小さなことではなかった。まず、当該論文は当初期待した効果は数値として確認できなかったわけであるが、有意差が出なかった理由をしっかりと現場での指導との関係から振り返って考察を行った。指導の記録をしっかりと残したいという思いと同時に、同じように指導方法を模索している教員がいれば、もしかすると参考になるかもしれないという思いもあり論文として執筆し投稿した。もともとはただ目の前の生徒のための指導ではあったが、受賞によって、いわゆる結果の出た研究ではなくとも、受け入れられ、認められることがわかり、応援されているという気持ちを持つことができた。また、学校の外からの評価を受けたことは私にとって予想外の効果として現れた。当時30代後半の私は学校内ではまだ若手という位置づけであったが、周囲の先生方や授業を担当していないクラスの生徒たちからも信頼されるようになったと感じることが多くなり、様々な提案にも耳を傾けてくださる方が増えた。

 私は初めて高校に赴任して以来、教員としての基本的な考えは変わっていない。複数の職業高校、普通高校、進学校で北海道内の様々な地域の生徒に出会ったが、英語への興味や熟達度にかかわらず共通する事柄は、どの生徒も潜在的に良くなりたいと思っていることであった。そして私自身もよい教員になりたいという思いが強かった。現在は短期大学にフィールドを移し、4技能伸長を目指して授業を行っているが、基本的な姿勢に変化はなく、これからもきっと変わることはないと思われる。研究に関しても、リーディングやライティング、語彙の学習法など、日々の英語学習に関係の深いテーマが主である。とても研究と言えるほどの質の高さはなく、まだまだ先は長いが伸び代は大きいと思うことにしている。今の自分があるのは、ありのままの私を認めて下さったELEC賞に負う面が大きく、心から感謝したい。