ELEC賞と私:ELEC賞受賞までの軌跡とその後の視座から

★シリーズ:「ELEC賞と私」★

飯塚 秀樹
獨協医科大学准教授

 2012年2月のある晩、英語教育協議会よりご連絡を頂き、2011年度ELEC賞(B研究部門)の受賞を知りました。「Consecutive Interpreting Approachに基づくプロソディー重視の口頭練習がL2筆記再生に与える効果」と題した拙論が歴史のあるELEC賞を受賞したという事実はとても自分のこととして受け止め難く、それを実感できるようになるまで数日を要しました。

 当時の私は17年間勤めた公立高校の職を辞し、大学という自分にとって未知なる社会に足を踏み入れたばかりで、正直なところ精神的にかなり不安な毎日を過ごしていました。職を変えると比較対象の概念が生まれます。気の知れた仲間がいる高校という職場、笑顔の絶えない生徒たち、いつまでも記憶に残る修学旅行、そして夏の野球応援。それらのものを憧憬として常に意識している自分がいました。自らの決断であったにもかかわらず…

 このELEC賞受賞は、そんな私にとって、大学という未知なる海を航海するコンパスのような存在になったと言えるかも知れません。一大学教員・研究者としての方向性を導き出してくれた頼もしい存在。これを執筆している2020年7月現在においても、そのコンパスは相変わらず自分の進むべき方角を示してくれているように思います。

 振り返れば私の研究者としての生活は、2003年9月に英国 University of Bathの大学院に留学した時から始まったと言えるでしょう。高校の英語教師として約10年間を経たある日のこと、職員朝会で大学院修学休業制度の存在を知りました。その制度とは、国公立学校の教員が専修免許状を取得するためであれば、3年を超えない期間で休業することができるというもので、私の興味は大いにそそられました。これからの長い教員生活の中で、1〜2年くらいブレイクをとるのもありだろうと、始めはそんな軽い気持ちでしたが、意識すればする程、その体験から生まれる可能性は計り知れないと考えるようになりました。そこで英国の大学院にターゲットを絞り、東京飯田橋にあるBritish Councilに足繁く通い、情報収集を始めました。英語教員として通常であればTESOL(Teaching English to Speakers of Other Languages)などの専攻を考えるのでしょうが、私は通訳コースを選びました。語学のエキスパートである通訳者たちはどのようにしてその言語力を獲得していくのかという点について掘り下げてみたいと考えたからです。自身をそのコースに置き、直接的にそのプロセスを体験することで、別の角度から英語教育を捉えることができるのではないかと、大した根拠もなく直感的にそう感じたのです。結果として当時、日・英の通訳コースを開講していた University of Bath, Department of European Studies and Modern Languages, M.A. in Interpreting & Translatingにターゲットを絞り、IELTSなどの入学準備を進めました。このようにして私の英国における大学院生活は始まったのです。

 バース大学の学生寮で目覚めたのは、成田を飛び立ってから2日後のことでした。軽くシャワーを浴びて外に出ると、典型的なイギリスの田園風景が目前に広がります。若干ハーブの香りの混じった凜とした風を感じたとき、今日から新しい一歩を踏み出すのだと期待に胸が膨らみました。毎日の課題の多さに愕然とするまでに数日とかかりませんでしたが。

 私はそのコースワークの中で逐次(ちくじ)通訳(Consecutive Interpreting)という通訳手法の1つを知りました。逐次通訳とは、メモを取りながら話者の話(起点言語)を聞き、ポーズごとに、内容のメモを頼りに目標言語へと訳出していく通訳形態となります。学術誌に目をとおすと、通訳者の間では「逐次に始まり、逐次に終わる」と言われるほど、この逐次通訳があらゆる通訳の基礎として位置付けられていることが分かります。そのため私は日々のトレーニングの一環として、この逐次通訳の練習に没頭しました。そんな中、あるショッキングな話を先生から聞かされることになるのです。

 このコースは通訳・翻訳という2つの領域から構成されていましたが、通訳に関しての最終試験は、同時・逐次通訳の実技試験1回のみで、合格点に達しない場合、修士論文を書くチャンスさえも与えられないとのことでした。しかもその実技試験は動画撮影され、外部の評価者も加わり審査される。イギリス大学院留学にはそれなりの費用がかかります。私の場合、約10年間高校教師をしつつ、チマチマと積み立てた貯金をすべてこの留学費用に充てていました。それが20〜30分程度の実技試験の結果次第でシャボン玉のように儚く消えてしまう可能性もあるのです。その話を聞いた夜、私は冷たい晩秋の風が吹くバースの街中をあてどなく歩き続けました。この衝撃に翻弄された胸を少しでも落ち着かせるために。散々歩いた後、街角で食べた揚げたてのchipsの温かさが胸にしみました。

 このコースに在籍していた学生たちは皆、私も含め、迫り来る最終試験を想定し、効率的な対策法を必死で模索していました。日・英両言語の語学力を高めるだけでなく、それらの言語転換力の強化も欠かせません。そんな最中、私はあることに気づくことになるのです。英語から日本語への逐次通訳練習をする過程で、私は書き留めたノートから内容を日本語に置き換えるだけでなく、そのノートから起点言語である英語を再度自分の英語で表現する練習も加えました。さらに、イギリス英語の音に慣れる必要もあったため、シャドーイング練習も徹底的に行いました。そのような学習を日々継続する中で、私自身の英語表現力はかなり拡張された気がします。そしてその気づきは、ある確信へと変化していきます。この留学の主たる目的は、別な角度から英語教育を捉えることであり、まさにこの練習法こそがそれに該当するものではないかと。私の研究テーマとなる「逐次通訳アプローチ」が生まれた瞬間でした。

 その後、5月半ばの最終試験を無事乗り切り、あとは修士論文を3年以内に完成させれば良いだけとなりました。思えば渡英してからこれまでの間、コースワークや試験準備に追われ、ほとんどバースの外に出たことはありませんでした。そこで帰国までの約1ヶ月間はイギリス中を旅し、すり減ったメンタルの修復期間としました。

 赤や紫や白など色とりどりの花が咲き誇る5月、6月のイングランド。優しい日差しや緑の草原、そして蜂蜜色の建造物と相交わり、その色彩の美しさは幻想的にすら見えます。自分は過去のどこかで一度死んでいて、意識だけがこの幻想の中を漂っているのかも知れない。それほど耽美的に思えました。確かにこのイギリスへの留学は、これまでの自分自身を捨て去り、新たな自分に生まれ変わる時期だったように感じます。その時に訪れた場所やそのイメージは、今でも記憶の中でしっかりと輝いています。Bathamptonの街はずれにあるパブThe George、Bradford-on-Avonの街並みや、そこのThe Bridge Tea Rooms、Castle CombeにあるThe Manor House、Sherborne Old Castle、ある時は車を借りてScotlandまで一気に走り、ネス湖のほとりで車中泊もしました。どれもガイドブックには載らないような場所ですが、自分にとっては意味のある場所です。そして何よりもバースの街並みや、そこで出会った人々を思い返すと言葉に詰まりました。どうやら帰国の時が来たようです。成田に着いてポケットの中を探ると、ヒースロー空港までの使用済チケットと16ポンドの現金のみ… たくさんの知識や経験を得るのと引き換えに、貯金も見事なまでに底をつく旅となりました。

 帰国後、高校教師として再び教鞭をとることとなりましたが、University of Bathでの学びを日々の授業で完全に実践できるようになるまでに、もう少し時間が必要でした。なぜシャドーイングや英語再現活動は自身の英語力拡張に役立ったのか、そういった点について英語教育研究を調査し、理論的な側面からも明らかにしたいと考えたのです。そんな中、転機となったのは定時制高校への異動でした。これまでは修士論文の執筆や日々の業務に追われていましたが、それから少し解放された今、午前中や夜の遅い時間に研究時間を確保できるようになったのです。そこで勤務後は、明け方までシャドーイングやリプロダクション関連の文献を読み漁り、昼まで爆睡後、夕方からの授業で逐次通訳に基づく英語教育を展開していきました。私のこの実践研究活動は、日本英語検定協会の研究助成を受け、さらに加速することになります。定時制高校に2年間勤務後、商業高校に異動となりました。そしてそこでも、誰も使用していないLL教室で、逐次通訳に基づく英語教育を継続しました。そんな中、JREC-INという大学教員公募サイトに目がとまります。調べてみると、自宅からほど近い自治医科大学看護学部で英語専任教員を公募していたのです。私には無縁と一瞬そのサイトを閉じましたが、それから数日間、その情報を何度も食い入るように読み返している自分がいます。気づけば応募書類を整え、面接まで受けていました。ある日スーパーで買い物をしていると見慣れない番号から着信があり、採用決定の知らせを受けました。その後、大した躊躇もなく私は辞表届けを勤務校に提出してしまいます。激動の人生の始まりでした。冒頭でも触れたとおり、そんな中で書き上げたのがELEC賞受賞論文でした。実は当初、関東地区のある学会にその論文を投稿したのですが、一度目の査読でリジェクトされ、修正の機会も与えられませんでした。自信を持って注意深く書き上げたものが全否定されるのは決して気分の良いものではありません。しかし、試練が厳しいものであればあるほど、次にそれとは反対のプラスのエネルギーが巡ってくると、感覚的に既に学習済みでした。振り返って考えてみても、あのリジェクトがなければELEC賞を受賞することもなく、またELEC英語教育研修会の講師にもなれなかったと思います。やはり世の中は正と負のエネルギーがかなりの確度で繰り返されるようですね。

 自治医科大学看護学部で5年半過ごした後、2016年8月に現在の勤務校となる獨協医科大学に着任しました。大学の教員として今後の在り方を考えた場合、学位(博士号)の取得は欠かせません。特に修士課程のない医学部にあっては「博士かそれ以外か」という空気感が当然の如く漂っています。また私自身も、これまで取り組んできた「逐次通訳に基づく英語教育」というテーマを突きつめてみたいと考えていました。そこで、国内で唯一、通信制で英語学の学位が取得できる名古屋学院大学大学院博士後期課程に入学することを決意しました。働きながら3年間で学位を取得するには、研究に対し強い熱意を維持することが前提となります。日々の業務をこなし、その上で専門書を10冊読み込むというコースワークや、選択科目、その他学位論文提出の条件等々、すべてをクリアしなければ博論の執筆には至りません。その間、身体的には帯状疱疹になったりと厳しかったのかも知れませんが、不思議なことに私自身、それらの課題に対して一度も苦痛を感じることはありませんでした。博論執筆中は、時間がある限りそれに没頭したいという強い欲求もありました。University of Bathからの長い旅の記録、生徒や学生との授業中のやりとり、その時感じていたこと、それらの実体験や自身の記憶、精神世界を一つずつ言語化・数値化し記述する学位論文。それは真っ白なキャンバスに構図を描き、色をのせ、ひとつの作品として完成させる絵画にも似たアートなのかも知れません。自身の博論をアートと呼ぶなんて甚だ僭越ですが、しかし少なくとも私自身はそのように捉え、その執筆活動に向き合いました。

 博論提出後の口頭試問では副査の教授陣から一斉射撃のような厳しい指摘を受け、正直なところ、その2週間後の結果発表まで、気づけば、どこかを見つめているようでどこも見ていない、そんな毎日を過ごしていました。その間、博士号を取れないのも自分の人生なのでしょうと諦観することで、精神的な折り合いをつけようとしていたのかも知れません。そして結果発表の時がきます。名古屋学院大学から届いた封筒を開けると、学位授与式の文字が目に入りました。ようやく博士号を授与されることになったのです。振り返れば壮大な旅でした。

 学位論文のタイトルは「English as a Foreign Language(EFL)環境下における英語コミュニケーションの基盤を養成するための一方略 〜逐次通訳アプローチの実践とその考察から〜」としました。留学の機会に恵まれない生徒・学生たちに、国内にいながらにして帰国子女と同等、あるいはそれ以上の語学力を身につけて欲しい。博論にはそんな想いが託されています。このアプローチは先に触れたとおり、定時制の高校教員時代から実践研究を開始しました。その後、自身の異動に伴ない、商業高校、自治医科大学看護学部・医学部、そして獨協医科大学医学部・看護学部・附属看護専門学校、さらに現在外勤をしている栃木県立衛生福祉大学校、世田谷区の成城大学においても本アプローチをベースに英語授業を続け、その汎用性についても日々研究しています。そして嬉しいことに、昨年度の2019年7月に成城大学ベストティーチャー賞を受賞しました。本アプローチに基づく英語授業に一つの小さな果実が実を結んだのです。

 お陰様でELEC英語教育研修会でもこれまでに全9回講座を担当させて頂きました。これまでの受講者フィードバック全112のコメントをAIテキストマイニングで解析すると、「授業−活かす」という係り受け頻度が最も高く、受講者の皆様の多くが本アプローチを授業で実践したいとする意向も窺えます。定時制高校から大学医学部まで対応できる本アプローチをぜひ体験してみてください。

 獨協医科大学にある私の研究室から窓越しに外を見ると、この梅雨空の下、緑の木々が皆、太陽を待ち構えているようです。このアプローチにもやがて陽が差し、それが大きく成長することで、皆様のお役に立つことができればと願っています。英語教師としての航海はまだまだ続きます。