最近の若い人の間では、かつて日本とアメリカが戦争をしたことを知らない人もいるそうだが、それほど現在の日米関係は緊密かつ友好的であるともいえる。しかし過去の歴史を振り返れば、必ずしもそうではなかった。良い時もあれば、悪い時も、さらには最悪の時期もあった。
最悪の時期とは、言うまでもなく、1941年の真珠湾攻撃から始まった4年間の太平洋戦争である。
日米開戦は、日本国民もアメリカ国民も望んでいなかった。昭和天皇の意思にも反していた。軍部に勝算があったわけでもない。にもかかわらず、政府は軍部の力を抑えることができなかった。何とかして開戦を避ける方法はなかったものかと、今さらながら残念に思う。
たしかに、真珠湾攻撃という直接的な軍事行動に踏み切ったのは日本である。そうである以上、日本は開戦の責任を免れることはできない。しかし、だからといって開戦の責任がすべて日本側にあると考えるのは一面的にすぎる。なぜならアメリカ政府は日米衝突を避ける努力をしなかったばかりか、むしろ日本の先制攻撃を歓迎したのだ。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、ヒットラーのドイツ軍に攻撃されたイギリスを助けるために第二次大戦に参戦したくとも、ヨーロッパの戦争には介入しないことを公約して大統領三選を果たしたばかりだけに、自ら行動を起こすことはできなかった。そのような彼にとって、ドイツの同盟国となった日本からの真珠湾先制攻撃はまさに思う壺であった。
しかも、在米日本大使館の不手際によって開戦通告が遅れたのを逆手にとって、真珠湾攻撃を日本軍の「卑劣な騙し討ち」と非難し、アメリカ国民の敵対感情を煽って参戦を正当化することに成功したのである。日米開戦はこうした国際情勢を読み切れなかった日本の政治外交の敗北であった。
歴史を遡ると、1853年のペリー来航から日露戦争までの半世紀の間、つまり初期の日米関係は極めて友好的であった。明治政府はアメリカの開拓者精神に学びながら、新しい国づくりを進めた。近代化の過程においても、最先端の科学技術はイギリス、ドイツ、フランスから導入する一方で、人づくりの教育に関しては、主としてアメリカ人から学んだのである。
だが日露戦争以降、両国の関係は悪化し始めた。その原因は日米双方にあった。
第一は、日本が大国への道を歩みだしたこと。日露戦争での勝利は世界を驚かせ、白人に支配されていた植民地の人たちに希望を与えたが、一方で、西欧列強の警戒心を募らせることにもなった。
第二は、アメリカの太平洋進出である。西部開拓が終わり、南北戦争の試練を乗り越えたアメリカは、米西戦争でスペインの圧政下にあったキューバを保護国化し、フィリピンのマニラを占領し、ハワイを併合し、スペインからフィリピンを買収してアメリカ領とし、さらにグアム、サモア、ウェークなどの太平洋諸島を支配するなど、太平洋国家としての道を歩み始めた。そのためセオドア・ルーズベルト大統領は、日本を仮想敵国とみなす「オレンジ計画」に沿って大艦隊の建造計画を進めていた。
第三は、カリフォルニア州を中心とするアメリカの排日運動である。カリフォルニア州では1913年に排日土地法が通って、日本人移民の排斥問題が日米間の最大の外交問題へと発展していく。そしてついに1924年には連邦議会で排日移民法が成立し、日米関係は一気に悪化したのである。
しかしこうして日米関係が悪化した時期においても、日米親善のために取り組んだ人たちが大勢いたことを忘れてはならない。
1910年代には、カーネギー財団とコロンビア大学により日米交換教授プログラムが創設されて、日本からは新渡戸稲造が派遣されて、1年間にわたりアメリカ各地で166回もの講演を行った。同じ頃、尾崎行雄東京市長からワシントンのポトマック河畔に桜の苗木が寄贈され、その返礼としてアメリカからハナミズキが贈られた。また、あるアメリカの銀行家の寄付により東京帝国大学に「米国憲法歴史及び外交」講座(ヘボン講座)が創設され、日本における本格的なアメリカ研究の体制が発足したのもこの時期である。
だが、こうした努力にもかかわらず日米関係は好転せず、1941年の破局へと突き進んで行った。
幸い戦後70年を経て、日米関係は以前にもまして緊密になった。しかしこれを当然のこととして安心してしまってはいけない。現在の日米関係は、私たちの先祖や先輩たちが、時には命を懸けて、並々ならぬ苦労を重ねながら築き上げてきたものである。それだけにこれからも大切にしなければならないし、そのための努力を惜しんではならないのだ。このことを歴史の教訓として忘れないようにしたい。
(草原克豪)