第9回で述べたように、1860(万延元)年の遣米使節はアメリカで大歓迎を受けた。するとアメリカに先を越されたイギリスやフランスからも同様の使節派遣の要請があり、幕府は1862(文久2)年にヨーロッパにも使節団を派遣することにした。竹内下野守保徳を正使とする遣欧使節である。
だがこの遣欧使節の目的は、先の遣米使節とは異なり、折からの攘夷熱の高まりを受けて、1858(安政5)年の通商修好条約で約束した江戸と大坂の開市、および兵庫と新潟の開港を延期してもらうためであった。
一行36名はフランス船で西回りに航海し、スエズ地峡を経由してマルセーユに入り、フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルの六か国を訪問し、6か月後に帰国した。幸い開港延期の承諾も得られ、各地で様々な施設を訪問して西欧諸国の実情を観察し、多くの知識を土産に帰国した。明治新政府の岩倉遣欧米使節団がヨーロッパを歴訪する10年も前のことである。
岩倉遣欧米使節団のことは広く知られているが、この竹内遣欧使節のことはあまり知られていない。その理由はいくつかあるが、ひとつには、開港延期交渉という後ろ向きの使命を追っていたうえ、一行が帰国の途につく直前、神奈川近くの生麦村で薩摩藩士が英国商人リチャードソンを切り殺すという生麦事件が発生して、国内が騒然となり、帰国後は外国のことを口外することすら禁じられたからである。それだけでなく、幕末の政変によって、使節団の正使や副使はじめ多くの幕臣たちが、明治維新までに失職し、歴史の表舞台から去ってしまった。
こうした事情は、先の万延元年の遣米使節の場合も似たり寄ったりであった。そのため、使節を乗せた本船よりも、それに随行してサンフランシスコまで往復した咸臨丸の方が有名になった。咸臨丸に乗船した勝海舟や福沢諭吉が維新後も生き残り、その経験談を『氷川清話』や『福翁自伝』に書き遺したからである。
文久2年の竹内遣欧使節は、開市・開港を5年間遅らせることはできたが、その代わり、関税の低減や生糸などの輸出自由化を約束させられてしまう。使節の最大の収穫といえば、遣米使節に引き続いて参加した福沢諭吉が、この時の見聞をもとに明治初期を風靡した『西洋事情』を著し、近代日本の進むべき道を具体的に示したことであろう。
幕末の遣外使節はこれだけではなかった。その後も、1864(元治元)年には、池田筑後守長発を正使とする遣欧使節が派遣され、1867(慶応3)年には徳川民部大輔一行の遣欧使節が派遣されている。しかし、どちらもまったくといっていいほど知られていない。
池田遣欧使節の場合は、悲劇としか言いようがない。なぜなら、この使節は、すでに開港している横浜港の閉鎖を各国に認めさせるという難題を背負わされていたからである。幕府は、京都の攘夷派の圧力をかわすために、はじめから無理とは知りながら、その素振りを見せるために使節の派遣を決めたのである。正使の池田筑後守はまだ27歳ながら見識に優れ、諸外国との対外交渉を行う外国奉行に抜擢されたばかりだった。しかし、フランスとの交渉は、横浜を対日貿易の拠点と考える先方の強い抵抗にあって失敗に終わった。
それだけではない。池田筑後守自身がフランスで見聞を広めるうちに、もはや攘夷の時代ではないことを明確に悟ってしまったのである。こうして攘夷派から開国派へと宗旨替えした池田は、交渉を途中で打ち切り、他の国には寄らずにそのまま帰国することにした。その際、物理学、生物学、工業、繊維、農業、醸造等多数の書物や資料をフランスから持ち帰っている。
帰国した池田は、幕府に開国政策をとるよう建議した。しかし、たった一人の反乱は誰からも相手にされず、逆に幕府から石高を半分に減らされて蟄居を命じられるなど、重罰を食らってしまう。その後、いったん復職するも精神状態が安定せず、結局、職を辞して岡山に隠居し、42歳で亡くなったのである。何とも同情の念を禁じ得ない。
(草原克豪)
■参考文献
尾佐竹猛『幕末遣外使節物語』(岩波文庫)