西洋伝来の近代スポーツが大学等の課外活動を通じて日本社会に広がりはじめた大正時代は、日本のオリンピック参加が始まった時代でもあった。
日本が初めてオリンピックに参加したのは1912(明治45)年の第5回ストックホルム大会である。その前年にクーベルタン男爵からの要請を受けて、柔道の創始者で東京高等師範学校長の嘉納治五郎を会長とする大日本体育協会(現在の日本体育協会)が創設され、ストックホルム大会には嘉納を団長に、陸上短距離の三島弥彦(東京帝大生)とマラソンの金栗四三(高等師範学校生)の二人が選手として参加した。結果は惨敗であった。しかしその後、金栗は箱根駅伝の開催にも尽力し、日本における「マラソンの父」と称された。
4年後のベルリン大会は第一次大戦で中止となったが、1920(大正9)年のアントワープ大会では、テニスのシングルスで熊谷一弥(慶應義塾大学卒)が銀メダル、ダブルスでも熊谷が柏尾誠一郎(東京商大卒)と組んで銀メダルを獲得した。熊谷はシングルスで優勝候補と目されていただけに、決勝で負けたのは「一生の不覚」と悔しがった。
その2年後の1922(大正11)年、文部省は運動体育展覧会を開催した。国民の間に運動体育の必要性についての理解を深め、身体を鍛える風潮を養うためであった。1か月間の会期中に17万人近い入場者を数えたという。
そして1924(大正13)年、パリ大会では織田幹雄が三段跳びで6位に入賞、早稲田大学に進学したあと、1928(昭和3)年のアムステルダム大会で日本人初めての金メダルを獲得したのである。競泳200m平泳ぎの鶴田義行(報知新聞社)も金メダルを獲得した。
このアムステルダム大会では、初めて陸上競技に女子種目が採用され、日本から21歳の人見絹枝(大阪毎日新聞社)が出場した。人見はすでに国際競技大会で個人総合1位になるなど世界の第一人者だった。しかし優勝を狙った100mでメダルを逃し、「このままでは日本に帰れない」と覚悟を決め、それまでレース経験のなかった800mに挑戦した。ラスト200mで3位を抜き、残り100mで2位を抜いた。だがその先の記憶はなかった。気がついたときは織田らに抱えられてフィールドに運ばれていた。気力で勝ち取った銀メダルだった。人見はその後も活躍したが、肺炎のため惜しくも24歳の若さでこの世を去った。
そして迎えた1932(昭和7)年のロサンゼルス大会では、日本は水泳5種目、三段跳び、馬術の7種目で金メダルを獲得し、さらに4年後のベルリン大会でも、水泳4種目、三段跳び、マラソンの6種目で金メダルを獲得するなど大活躍をし、国威を発揚したのである。
こうしてオリンピックでの日本選手の活躍に日本中が湧くなかで、各種の近代スポーツが日本社会に根を下ろし、それが今日の隆盛に結びついていった。その中で見せたトップアスリートたちの勇姿には武士道精神を感じさせるものがある。西洋の近代スポーツは日本社会の中で日本化したともいえる。野球の試合開始前に両チームの選手が整列して脱帽・礼をするのものその表れであろう。
その一方で、武道のスポーツ化も進んだ。1964(昭和39)年の東京大会からは柔道もオリンピックの仲間入りを果たし、2020年の東京大会には空手道も新たに競技種目に加わる。日本の伝統武道であるだけに日本選手の活躍が期待される。ただし、スポーツとしての競技性が高じるあまり、勝つことがすべてという勝利至上主義には陥らないように願いたい。
たしかに、オリンピックへの出場、さらに金メダルを獲得することは、若者にとって青春のエネルギーのすべてを懸けて挑戦するに値する目標だと思う。そして参加するからには勝つことを目指すのは当然である。しかし、勝ち負けの結果だけがすべてではない。もっと大事なことがあることを忘れてはならない。武道の究極の目的は、己に克つことであって、人に勝つことではないと言われる。試合はそのための手段である。
近年はスポーツ人口の増加と高齢化社会を反映して、心身の鍛錬や人格の陶冶だけでなく、健康や遊戯・娯楽性を重視した「楽しむスポーツ」という側面にも目が向けられるようになってきた。学校教育における体育授業の中身もかつての体操からスポーツへと変わってきた。多様な側面をもちながら多様なニーズに応える生涯スポーツの時代を迎えたのである。そのなかで武道にとっても、いかにして伝統を守りつつ、新しい時代の要請に応えていくかが重要な課題であろう。
(草原克豪)
■参考文献
ウェブサイト「スポーツの歴史」(笹川スポーツ財団)