4年に一度のオリンピック大会はまさにスポーツの祭典である。このスポーツという言葉を私たちは日常的に使っているが、改めてその意味を問われると説明しにくい。
広辞苑には「遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素を含む身体運動の総称」とあるが、その語源をたどるとラテン語の「deportare」、つまり、あるところから別の場所に運ぶというのが本来の意味である。それが、フランス語、英語の中で変化し、「気分を転じさせる」「楽しませる」といった意味合いで用いられるようになった。その定義にピッタリ合うスポーツが、貴族の遊戯としての狩猟活動であった。
しかし近代になると、単なる遊戯から「真面目な遊び」へと変わっていく。そして19世紀の英国において競技的な性格を帯びたゲームや運動が盛んになり、ルール化が進んで、サッカー、ラグビー、陸上競技、ボート、テニスなどの近代スポーツが誕生した。それが明治維新後の日本にも伝わってきたのである。
ところが当時の日本にはそのような「遊び」の要素を含んだスポーツという概念は存在しなかった。武士が支配した日本においては、身体運動といえば剣術や柔術のような武芸に限られており、その目的は心身の鍛錬であって、遊戯的な要素は皆無だった。
明治維新後、文部省は学校教育の中に「体育」を導入した。それが西洋式の「体操」を中心としたものであったため、講道館柔道を創始した嘉納治五郎らは武術を中学校の正課として認めるよう要望したが、欧化政策をとる文部省はなかなかウンと言わなかった。
そうした中で、日清戦争後の1895(明治28)年、京都に武術教育による鍛錬を目的とした公的な組織である大日本武徳会が設立され、警察を中心に内務省の地方組織を動員して全国的な活動を展開した。1911(明治44)年になると、「撃剣及柔術」が中学校の体操の中で正課として認められ、翌年には大日本武徳会に武術専門学校が設立されて、武術の隆盛期を迎える。その中では大学・高等学校・専門学校も大きな役割を果たした。
それらの学校は、西洋伝来の近代スポーツも積極的に受け入れた。例えば慶応義塾では、剣術部、柔術部、端艇(ボート)部、野球部、弓術部が中心となって1892(明治25)年に体育会が創設され、その後、明治年間に庭球部、水泳部、蹴球部が加入し、大正年間には競走部、相撲部、山岳部、ホッケー部、馬術部が加入している。さらに昭和に入ると、ソッカー部、スケート部、篭球部、空手部、スキー部、卓球部、ヨット部、排球部、射撃部といった具合に、西洋近代スポーツの部が増えていった。
このように西洋の近代スポーツは、明治末期から大正時代を中心に、当時のエリート養成学校における課外活動として取り入れられ、広く普及していったのである。イギリスのラグビー、イートン、ハローなどといったパブリックスクールにおいてはスポーツが生徒の人格形成面でも重要な役割を果たしていたことから、それに倣ったともいえる。
学校対抗の大会も盛んになった。正月恒例の大学箱根駅伝が始まったのは1920年、全国大学ラグビー選手権大会の前身である東西大学対抗ラグビーが始まったのは1925年である。1873(明治6)年にアメリカから伝わった野球では1903(明治36)年に早慶の大学対抗が始まっていたが、1925(大正14)年には東京六大学連野球連盟が発足した。「夏の甲子園」の前身である全国中等学校優勝野球大会は1915(大正4)年から始まっている。
その間に、剣道や柔道においても、スポーツに含まれる競技的要素に基づいたルールづくりが行われ、学校対抗試合が人気を集めるようになった。1914(大正3)年に、第1回全国高等学校専門学校柔道大会(通称「高専大会」)が開催され、剣道においても、1928(昭和3)年に、第1回全国大学高等専門学校剣道大会が開催されている。
これらの大会に参加する選手たちに見られるのは、武道に限らず近代スポーツにおいても、遊戯性を含んだスポーツ精神というよりは、むしろ武士道精神であり大和魂であった。
そうなったのは、日本においては明治維新後も伝統的な尚武の精神が生きており、西洋伝来の近代スポーツも、剣道、柔道、弓術などの武道と並んで、高学歴エリート層における心身の鍛錬と人格陶冶を目的とした「日本的アマチュアスポーツ」として発展していったからであろう。そのため日本におけるスポーツ精神は、限りなく武士道精神に近いものになった。この伝統は今日においても基本的に変わらないように思われる。
(草原克豪)
■参考文献
ウェブサイト「スポーツの歴史」(笹川スポーツ財団)