前回は工部大学校を成功させたヘンリー・ダイアーについて書いた。彼はイギリス人だが、正確に言うとスコットランドの出身である。
イギリスという言葉はポルトガル語のイングレスinglezがなまって用いられるようになったもので、「英吉利」と書くことから英国とも呼ばれるが、元々はイングランドの意味である。
イングランド(及びウェールズ)とスコットランドは16世紀までは別々の王国だった。それが1603年、日本では徳川家康が江戸に幕府を開いた年に、エリザベス一世の死去に伴ってスコットランド王のジェームズ六世が、イングランド王ジェームズ一世に即位して「一王二議会制」となり、1707年には、両者が合邦して「グレート・ブリテン王国」になった。
その後1801年、「グレート・ブリテン王国」はアイルランド王国を併合して「グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国」となり、さらに第一次世界大戦後、アイルランドの独立に伴い、現在の「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」に改称した。この連合王国を、私たちは今でも一般的にイギリスあるいは英国と呼んでいるのであるが、それを英語でそのままEnglandと言ってしまうと誤解を招く。
では英語では何と呼んだらよいのか。正式にはUnited Kingdom of Great Britain and Northern Irelandだが、一般的には、英国をUnited Kingdom(略してUK)あるいはBritain、そして英国人をBritishと呼んでいるようだ。
ところで、幕末及び明治初期の日本にとって重要な関りを持ったのは、イングランドよりはむしろスコットランドの方であった。ダイアーだけではなく、前回登場した人物のほとんど全員がスコットランド人なのである。
日米修好通商条約締結の噂を聞いた英国外務省は1858年、日英間の条約締結のために第8代エルギン卿ジェームズ・ブルースを日本に派遣したが、彼はスコットランド出身であった。秘書として来日したローレンス・オリファントも南アフリカでスコットランド福音主義者の家庭に生まれている。
条約締結の翌年には、スコットランド人のトーマス・グラバーがスコットランド系海運会社デント商会の代理人として来日し、その後、同じくスコットランドの商社ジャーディン・マセソン社の代理人となって様々な商業活動を展開した。そのグラバーとジャーディン・マセソン商会が、伊藤博文ら長州5人組のイギリス密航を支援し、さらに2年後には森有礼や五代友厚らの薩摩藩士19名の密航も手伝ったのである。
明治政府のお雇い外国人第一号は、1868年に灯台局に雇用され各地で灯台を建設したリチャード・ブラントンだが、彼もスコットランド人であった。明治政府に雇われて銀行業務に関する指導を行い「日本近代銀行の発展の父」と呼ばれるようになったアレクサンダー・シャンドもスコットランドの生まれで、もともと幕末期にスコットランド系のチャータード・マーカンティル銀行から派遣されて横浜居留区に同銀行支店を開いた人物であった。
ダイアーを推薦したグラスゴー大学からは、その後もケルヴィン卿が中心になって、多くのスコットランド人専門家が来日した。その縁で、工部大学校卒業生はじめ大勢の日本人留学生がグラスゴー大学あるいはエディンバラ大学に学ぶことにもなる。その中にはグラスゴー大学に留学後、エディンバラ近郊のフォース湾に架かる鉄道橋の工事監督としてカンチレバートラス構造(大阪港の港大橋にも採用)の壮麗な橋を完成させた工部大学校第5期生の渡邊嘉一もいた。このフォース橋は2015年に世界遺産に登録されている。
スコットランドは『国富論』のアダム・スミス、『衣服哲学』のトーマス・カーライル、『自助論』のサミュエル・スマイルズなどを生み出した土地であり、能力による教育機会を重視する平等主義的思考の伝統があった。プレスビテリアン(長老会派)の宗教観が現実的で、教育熱心であり、手を汚して働くことを奨励したこともあって、スコットランド人は合理的思考の持ち主で、冒険心にも富んでいた。また立身出世すると公共のために何かを寄贈する伝統もあったようだ。アメリカで成功し今では慈善活動家として知られる鋼鉄王アンドリュー・カーネギーもスコットランドからの移民だと聞くと、何となく納得できる。
(草原克豪)
■参考文献
北政巳『御雇い外国人ヘンリー・ダイアー』(2007、文生書院)