幕末の1863年、攘夷派の急先鋒であった長州藩は西洋の圧倒的な軍事力を目にして、科学技術の重要性に目覚め、長崎在住の商人トーマス・グラバーの斡旋で5名の留学生をイギリスに密航させた。その中には伊藤博文、井上馨、山尾庸三らがいた。
彼らはロンドンでジャーディン・マセソン商会のロンドン社長ヒュー・マセソンなどの世話になり、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで勉強を始めた。伊藤と井上は折からの下関戦争の報を聞いて帰国するが、山尾はロンドンで基礎科学を学んだあとグラスゴーに移って造船技術の実地訓練を続け、明治維新が成った1868年に帰国する。
維新後、伊藤博文は英語力を買われて政府の要職につき、鉄道技師長エドモンド・モレルの提案に基づいて工部省が設置されると、工部大輔(工部卿は不在)として殖産興業の責任者となった。工部省では工部少輔となった山尾庸三の意見書に基づいて、官職技術者の養成のために工学寮を設立し、工学校を開校することになった。
教授陣の人選を任された伊藤博文は、岩倉使節団の副使として渡英した際、ロンドンでヒュー・マセソンに再会して教授陣雇い入れの周旋を依頼した。マセソンはグラスゴー大学の知り合いの教授を通じて土木工学科のウィリアム・ランキン教授に協力を依頼したところ、大学から、土木工学科第一期生として最優秀で卒業したばかりの24歳の青年ヘンリー・ダイアーが都検(教頭=実質的校長)として推薦されてきた。まもなくランキン教授が亡くなると、その後は物理学のウィリアム・トムソン教授(ケルヴィン卿)を中心にして優秀な弟子たちが推薦されてきた。
1873年、ダイアーは8名の教授や助手とともに来日した。伊藤は工部卿(大臣)に就任し、工部大輔に昇進した山尾が工学寮の責任者としてダイアーを迎えた。山尾はかつてイギリスに留学した際、グラスゴーのネイピア造船所で徒弟修業しながら、アンダーソン・カレッジ夜学に通っていたことがあるが、実はダイアーも同じころアンダーソン・カレッジで学び、その後グラスゴー大学に編入したという経歴の持ち主であった。二人は同級生の縁を大事にし、互いに信頼し合って新しい学校づくりに取り組んだ。
当時、西欧では歴史的に技術系の職業は低く見られ、総合大学には工学部は置かれていなかった。わずかに、フランスのエコールポリテクニックにはじまり、ドイツのテクニッシュホッホシューレ(技術高等学校)、スイス連邦工科大学チューリッヒ校、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)などの近代的な技術高等教育機関が誕生したばかりであった。
そうした中で、ダイアーは英国式の実習修業を重視しつつ、大陸式の学理主義も導入して、理論と実践を統合した体系的・組織的な工学教育を行う新しい学校を作ろうとしたのである。
新しい学校組織は、ダイアーの構想に沿って基礎課程、専門課程、実地課程の3期6年とし、土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山、造船の8学科が置かれた。主要科目の授業はもっぱらイギリス人教授により英語で行われた。この点では、分野は違うが1876年に開拓使が創設した札幌農学校と似ている。
1875年には仮校舎で専門課程の本格的な授業が開始され、77年には工部大学校と改称されて新校舎が完成した(文部科学省と金融庁のある一帯)。ちなみに同年、東京開成学校と東京医学校が合併して文部省所管の東京大学(法、理、医、文の4学部)が創設されている。
1879年には6年間の授業を終えた第1期生23名が卒業した。その中には、造家学科でジョサイア・コンドルの指導を受け、後に日本銀行本店や東京駅を設計した辰野金吾、迎賓館を設計した片山東熊らがいた。化学科の第1期生には高峰譲吉がいた。
1885年、工部省の廃止とともに工部大学校は文部省に移管され、翌86年、帝国大学令により東京大学工芸学部(前年末に東京大学理学部の機械、土木、採鉱冶金、応用化学などの諸学科が分離独立)と合併して帝国大学工科大学となった。卒業生は、帝国大学に吸収されるまでの全7期にわたり211名を数え、日本の近代化の担い手として重要な役割を果たした。
こうして工部大学校は姿を消したが、それが帝国大学に吸収されたことによって、日本の大学制度の中では当初から工学部が質量ともに重要な地位を占め、単なる技術者にとどまることなく工業国家を牽引する優れた指導者の養成にも大きく貢献することになった。
ダイアーは1883年、9年間の職責を終えて帰国し、帰国後は『大日本―東洋のイギリス』を刊行して、明治維新の原動力が武士道精神であることを紹介。折から日露戦争勃発すると、最新技術を身に付けた日本が勝つことを確信し、日本がアジア最強の工業国家となったことを喜んだ。
山尾は後に工部卿を務めたあと、1885年、第一次伊藤博文内閣の発足に伴い宮中顧問官及び初代法制局長官に就任し、中央官庁街の計画立案に当たった。この時の外務大臣は井上馨で、かつてイギリスで学んだ3人が日本で最初の内閣で一緒に仕事をすることになったのである。
(草原克豪)
■参考文献
北政巳『御雇い外国人ヘンリー・ダイアー』(2007、文生書院)