[異文化交流の開拓者たち] 第18回「なぜ日本ではキリスト教が広がらなかったのか」

 現在、日本のキリスト教信者は、プロテスタントが60万人、カトリックが50万人、併せて110万人ほどいると言われる。他にオーソドックスが3万人くらいいる。これら全部を合わせても人口の1%に満たない。

 韓国では、プロテスタントが1100万人、カトリックが300万人、合計1400万人もいて、人口の3分の1を占めているという。中国では19世紀初めからイギリス人宣教師によってプロテスタントの宣教がはじまり、現在では5千万人、人口の5%近くを占めるという。このようなアジアの隣国と比べても日本のキリスト教信者数は極端に少ないのだ。

 なぜ日本ではキリスト教信者が増えなかったのか。それは日本ではキリスト教が旧武士階級によって受け入れられたという事実と深く関わっているようだ。

 明治維新で武士はもはや特権階級ではなくなった。そのため武士の子弟、特に幕臣や佐幕派藩士の子弟たちは立身出世の道もふさがれ、学問によって自らの進む道を開拓するしかなかった。そうした中で西洋の学問知識を積極的に身につけようとして宣教師のもとに集まり、その影響で士族階級の中からキリスト教に帰依する人が増えることになった。

 この時代に日本に入って来たキリスト教は主にプロテスタントである。欧米の学問や制度を導入するために招いた御雇い外国人はイギリス人、アメリカ人が多く、それにフランス人、ドイツ人が続いたが、フランス以外はすべてプロテスタントの国であった。

さらに宣教師についてはプロテスタントの中でも特に自らを厳しく律するピューリタンが多いという特徴があった。そのような禁欲的で自己修養的なキリスト教の教えは、日頃から自らを厳しく律することに慣れている士族階級にとっては抵抗が少なかった。

 しかし士族階級は人口のわずか5%程度にすぎず、そのためキリスト教に触れる人は限られていた。他方、労働者や一般大衆にとってはプロテスタントの説く信仰生活はあまりに窮屈なものと受け止められた。それだけでなく、禁教令の影響もあって一般にはキリスト教が偏見をもって見られていたことも無視できない。

 その結果、日本のキリスト教会は士族階級を中心としたどちらかというと特権階級や高学歴の男女が集まるサロン的な場所となり、「地の塩」「世の光」として社会の底辺で苦悩する人たちに対する慈善・奉仕などの活動にも、あまり関心が向かなかった。これでは広く社会に拡がることは望めなかった。

 一般大衆が頼ったのは、祖先崇拝の神道や、土着化した既成宗教である仏教、特に浄土真宗をはじめとする救済目的の仏教であった。そもそも日本の仏教は、厳しい修行を経て自力で浄土に到達するインドの原始仏教とは大きく異なり、念仏を唱えさえすれば誰でも浄土に行けるという阿弥陀仏による救いの仏教が主流である。キリスト教も同じように信仰による救いを説くが、すでに救いの仏教が広く民衆に根を張っている以上、それにとってかわることはむずかしい。それに加えて、日本人には神との契約を受け入れるという観念もなかった。

 もっとも、日本ではキリスト教もかなり日本化している。少なくとも、他の信仰に対して敵対的あるいは排他的な態度を示すことはない。

 明治時代の知識人にとってキリスト教は新しい宗教であるだけでなく、それ以上に西洋文化への入り口でもあった。欧化主義の先端を行くハイカラなものでもあった。だから唯一の神を信じるかどうか、神との契約を受け入れるかどうか、三位一体説を信じるかどうか、聖書をどう解釈するかといった神学的な問題はそれほど重要ではなかったともいえる。幕末から明治初期の日本人の心をとらえたのは、どちらかというと、日本での伝道に尽くした宣教師たちのすぐれた人格であり、彼らが実践した教育や社会事業などの行為であった。つまり、キリストの教えに沿った宣教師たちの生き方そのものに惹かれ、自分もそれに近づくために自己修養に努めたいという、現実的な判断から入信した人が多かったのである。

 だからであろうが、いったん入信したものの、のちにキリスト教から離れていった人も少なくない。このことは、もともとキリスト教の教義に惹かれて入信した人ばかりではなかったことを示している。厳密な意味での一神教的信仰は、八百万の神を祀る日本人の信仰とは相容れないものがあったのであろう。

(草原克豪)