岡倉由三郎先生 音声学と英語教育に道を開いた明治の草分け(4)英語圏世界で日本文化を紹介する
(島岡丘 筑波大学名誉教授シニアプロフェッサー)

 当時、岡倉由三郎著『英語教育』(1911)は、Otto Jespersenの『外国語教授法』(1904)とならんで、英語教育界のバイブル的存在と言われ、注目をあつめた。しかし、それとは別に岡倉はもう一つの大きなプロジェクト、日本の文化を海外に紹介するという仕事に向かっていた。正式には文部省より明治4年9月から、英語及びドイツ語教授法研究のため、満3年間留学を命じられたのであるが、岡倉の気持ちとしては、留学の機会に、更に西洋人の心を直接掴み、同時に日本文化を少しでも多く理解してもらおうと努力したいと思っていたようである。

 岡倉由三郎著
『英語教育』(1911)の表紙。
岡倉由三郎著
The Japanese Spirit(1902)の表紙。

 岡倉がロンドン大学に留学した折、The Japanese Spirit(大和心1)の演題で講演を依頼された。その講演の評判がよかったので、他のキャンパスでもという期待が寄せられたが、留学3年間という取り決めもあって、実現は出来なかった。その代わりに、その講演を本にまとめて出版したい申し出があり、英語版のほかにオランダ語とドイツ語の翻訳版が出版されることになった。現在、国会図書館や一部の図書館などで入手可能。本書の出版に力になってくれたのは、本書の序文を書いたGeorge Meredithである。Meredithはヴィクトリア王朝時代の詩人・小説家であったが、序文をつけてThe Japanese SpiritのタイトルでロンドンのConstable社から出版されるよう取りはからった。その序文には ”honoured guest from the Rising Sun” と記し、岡倉に最大限の敬意を表した。                                

 日本文化の紹介者は、それまで、Lafcadio Hearn(小泉八雲)、 E. Sato, B.H.Chamberlainなどであるが、岡倉は一般の日本人の心と気質はその独特な風土によって形成されたとする。

 日本人で海外に日本文化を伝えたのは小泉八雲を始め、新渡戸稲造、岡倉天心などが上げられるが、岡倉由三郎のように、日本語及び日本の精神文化について自由に英語で語れる人材は少なかったであろう。岡倉は留学以前にも海外の知識人と幅広く交流を行っていた。大英博物館の東洋部長R.L. Binyonや、インドの思想家・詩人として有名なR. Tagore来日に際しては、共に「胸襟を開いて芸術哲学を語り合った」とのことである (英文教室の同僚、寺西武夫談)。

 岡倉は講演と著作によって多くの西洋人の疑問に答えている。日本人の特徴は、その風土によって熟成されたと断じている。頻繁に起こる地震は不安感を抱かせることはあっても、火山国がもたらす地形美を眺め入ったり、四季折々の自然の営みや、世界有数の温泉地は人々を癒やすのである。岡倉は本書で、“annoying frequency of earthquake and agreeable abundance of thermal spring.”と述べ、 このような国土ではカントやショウペンハウエルなどのような形而上思想家(metaphysical thinker)を生み出すよりは、むしろ現実的で行動的な人物を生み出す傾向があるということを力強いタッチで次のように述べる “We are, I think, a people of the Present and the Tangible, of a broad Daylight with the plainly Visible in favour of determination and action.”

 風土の影響の他に日本人の気質は儒教の深い影響を受け、社会の秩序を忠誠心と親孝行(filial piety)の気持ちでヒエラルキーを形成しているとする。

 また当時、日本は大陸から多くの影響を受けたことを率直に語る。仏教の伝来、孔子と儒教など遣唐使によって大陸から大きな影響を受けたことを語り、日本の歴史を紐解いていくと、これらの思想と日本独自の神道主義と禅宗との絡み合いが見られるとする。戦後の日本では多くは語られないが、天皇の神格性、教育勅語なども岡倉では率直に意見を述べている。教会を中心に西欧社会が構成されているとしたら、日本における明治の発展の時代精神は岡倉によれば、それは不可知論的無宗教(agnostic atheism)であると答えているのは印象的である。

 当時、欧米の一部では、日本の台頭を黄渦論(the Yellow Peril)として良く思わない空気もあったが、Meredithは、日本は平和的な仏教国であり住民は昔から気高い人々(a people of native Nobility)である、と伝えた。なお、岡倉は、国内では、儒教の長幼序の思想が行き渡り、社会全体が、神道主義と禅宗が日本のバックボーンを作ってきたことを述べ、一旦緩急あるときは、国のため、命を犠牲にしても守るという心構えができていることを伝えた。

 その頃、日露戦争で旅順(Port Arthur)の陥落など知れることとなったが、日本は国家危機のときは、“solider-like simplicity” で敵に立ち向かうとする。筆者が戦前小学校で学んだ「国史」と一脈通じるものを感じた。

 本書を読んで、岡倉は正に東西の架け橋の役割を立派に果たしたと思う。岡倉は自分を卑下せず、堂々と自説を展開し、日本の長所だけでなく島国である問題点も指摘する。日英同盟を対等の立場で締結した頃であり、日本が西洋諸国に莫大な恩恵を受けており、そのことへの感謝を次のように述べている。岡倉の英語はこの3行にも実に立派というほかはなかろう.

 “The civilization has been tried-a civilization the effect of which has been so beneficial to our development, that we feel it a most agreeably to acknowledge our immense obligation to the nations of the West.”

■参考文献
岡倉由三郎(1911)『英語教育』博文館。
岡倉由三郎(1902)The Japanese Spirit. London: Constable.
Otto Jespersen (1904) How to Teach a Foreign Language .London: Allen & Unwin.
寺西武夫(1933)『岡倉先生と英語教育』(岡倉先生への追悼文)
『英語の研究と教授』V巻、330頁、本の友社。
1「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」(本居宣長)