[異文化交流の開拓者たち] 第17回「札幌バンド」

 クラーク博士の感化によって札幌農学校の生徒を中心に形成されたキリスト教信仰グループは札幌バンドと呼ばれた。札幌バンドは、横浜バンド、熊本バンドと並んで、日本のプロテスタントの三大発祥地の一つに数えられている。

 日本にキリスト教が伝わったのは、1549年、イエズス会の宣教師ザビエルの来日からである。ザビエルは日本人のことを「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」だと評し、特に名誉心と、貧困を恥としないことを褒めた。そのザビエルの誠実な人柄もあって日本におけるキリスト教信者は一挙に増え、1600年頃には60万人、全人口の2.5%に達したとも言われている。

 これに対して、はじめはキリスト教に対して寛大であった豊臣秀吉が、ある時期から彼らを欧米の植民地主義の尖兵とみなすようになって追放令を発し、弾圧に踏み切った。後を継いだ徳川家康は当初キリスト教を黙認していたが、その彼も1613年に切支丹禁令高札を出してキリスト教を禁止した。それ以後キリスト教は邪教とされたのである。

 それから245年後、幕末に日本がアメリカはじめ各国と修好通商条約を締結すると、キリスト教各派の宣教師が競い合うようにして日本にやってきた。1859年に米国監督教会のリギンスが来日したのを皮切りに、同派ウィリアムが長崎に 、米国長老教会のヘボンが神奈川に、アメリカ・オランダ改革派教会のフルベッキが長崎に派遣されてきた。ロシアからはハリストス正教会のニコライが函館に来た。カトリックのフランスからもパリ外国宣教会のジラール師が来日し、横浜に天主堂を建てた。するとそこにあまりに大勢の見物人が押しかけたため、神奈川奉行が33名の見物人を検挙するという事件まで起きた。しかしその後は、幕府の開国政策に反対する攘夷運動が過激化し、外国人排斥運動が各所で起こったため、キリスト教の布教活動は頓挫してしまう。

 明治維新後、欧米列強からキリスト教解禁の強い要求を受けた新政府は、条約改正を実現するためにも彼らに譲歩せざるをえなくなり、1873(明治6)年、切支丹禁令高札を撤廃した。その実態は解禁というよりも黙認に近かったが、それでもこれを契機に、プロテスタントの布教活動が活発化することになった。前年の1872(明治5)年には、オランダ改革派宣教師バラを中心に日本基督公会の横浜海岸教会が創立されたし、1875(明治8)年には新島襄の同志社が創立された。ミッション系の私学があちこちで創設されたのも1870年代のことであった。

 こうして横浜には、米国長老教会のヘボンを中心にして、フェリス女学院、明治学院、植村正久らによる横浜バンドと呼ばれるグループが形成されていった。熊本では、熊本洋学校に招かれたアメリカ人ジェーンズを中心に、新島襄、海老名弾正らによる熊本バンドが形成され、熊本洋学校が廃止されると、彼らは京都の同志社英学校に拠点を移して活動する。そして北の北海道では札幌農学校を中心とする札幌バンドが形成されたのである。

 三つのバンドにはそれぞれ特色があった。横浜バンドは教会組織の活動や神学を重視し、熊本バンドは社会に対する奉仕活動を重視する傾向が強かった。これに対して札幌バンドは、聖書講読、つまりキリストの教えそのものを学ぶことに重きを置いていた。

 札幌バンドが聖書の教えを重視したのは、クラーク博士の影響である。博士は聖書の講義の中で、アメリカのキリスト教が腐敗しており、形式的なものになっていることを批判し、形式から離れてもっと神に接近したキリスト教にならなければならないと説いたのである。

 札幌農学校二期生の新渡戸稲造が、アメリカに留学中に同じキリスト教の中でもクエーカー(正式にはフレンド派、形式を排して質素を旨とし、各自が「内なる光」を感じて直接神と交わることを重視する)と呼ばれる一派に出遭って、日本人として最初の信者になったことや、あるいは内村鑑三が無教会主義のキリスト教を唱えたことなどは、札幌バンドの特徴をよく表している。

 こうしてプロテスタントの布教活動は盛んになったが、カトリックのほうは徳川時代に邪教とされた歴史もあって、文明開化の明治時代になってもなかなか受け入れられなかった。それに加えてパリ外国宣教会は保守的で、伝道にはあまり積極的でなかった。開国後の日本でカトリックが盛んになるのは、明治末期にドイツから宣教師が来るようになってからである。その後はイエズス会が上智を開設し、イエズス聖心会が聖心女学院を開設するに及んで、カトリック人口も急速に増え、プロテスタントに迫る勢いを示すようになった。

(草原克豪)