岡倉由三郎先生 音声学と英語教育に道を開いた明治の草分け(3)英文読解の楽しみと音読の楽しみ
(島岡丘 筑波大学名誉教授シニアプロフェッサー)

I. 英文原書の注釈の達人

 岡倉は高卒レベルに相応しい英文原書講読シリーズ70数編の訳注を提供している。その中には版を重ねて、現在でも使用可能なものがある。その理由は内容が興味深いし注釈を参考に読むと理解がさらに深まって実に楽しいからである。岡倉は『日本語新文法』など著書にみるように、日本語にも詳しい。「なるほど」と思わせる日本語訳から学ぶことが多々あると言えよう。

 岡倉の日本語訳に特に感激したのは、同時代の英文学者の平田禿木である。岡倉由三郎の訳注本『おもかげ』(長風社)は『英語青年』(研究社)に載せられた英文短編集で、Mark TwainのCecil Roseという小品の出だしの文、“The shark is the swiftest fish that swims.”は岡倉の訳では「よろづのうおくずの中で鮫が一番水切りが速い」となっている。the swiftest fishを平凡に「もっとも速く泳ぐ」よりも、「一番水切りが速い」など、やや古風だけれども優雅な日本語を選んで訳していることに気づく。日本語の達人と高く評価する人もいた。当時の英文学者、平田禿木はその一人である。岡倉の訳注で顕著なものを次に掲げる。

◆ R. L. Stevenson, New Arabian Knights. 研究社。1993。

 岡倉は当時の市河三喜(帝大教授、現東京大学)と共に、詳しい紹介と訳注をこのシリーズについてつけている。訳注は、ほぼ50頁分、2/3頁ほどを解説に使ったのである。その注釈本は全体で70数点中にも及んだ。その内容は、作者小伝、作者の心とその筆、作者の著作、作品の解説などに接することが出来る。岡倉はそのうち、10点前後の原書の注解を行っている。岡倉が第一に選んだのはR.L.Stevensonであるが、その理由はおそらく、両者共子供の時から体が弱かったが、晩年まで健筆を振るったことかもしれない。

◆ R.L. Stevenson, The Suicide Club. 研究社、1929。

 彼の従兄弟の奇行をモデルにした興味津々の話である。Londonという週刊誌に連載。 

◆ R.L. Stevenson、 Virginibus Puerisque (若き人々の為に)、研究社。

 エッセー集で、結婚の話題を取り上げ、男女の感情の機微などを掘り下げた。原著者Stevensonは、Treasure Islandなど、晩年子供向きの冒険物語を取り上げ、主人公の活発な活躍や場面の盛んな変化など、岡倉は「きびきびとした心地よき文体」と高く評価している。

II. 記念論文集の発行

 伝統的には、大学の教官の多くは60歳を迎えると、同僚や教え子が集まって還暦のお祝いを盛り上げて感謝を表したり、それに定年退官の時期になると、「最終講義」が行われる。M.A.K.Hallidayにイギリスにはこのような伝統があるのか伺った際、「残念ながら、そのような素晴らしい伝統はありません。せいぜい、何人か気の合う教え子を連れ出してバーで一杯やるぐらいだ」と、日本のアカデミズムの伝統を賞賛しながら、筆者に語った。

◆  市河三喜編『岡倉由三郎 記念論文集』研究社、1928。

 岡倉由三郎が還暦を迎えたとき、市河三喜が中心になり記念論文集を出版することになった。岡倉とのゆかりのある著名人が寄稿した。B.H. Chamberlainは自作の詩を、J.M.Dixonはケルト人について、また、土居光知、福原鱗太郎、豊田実、神保格など、30数名がそれぞれの専門分野について執筆した。全体で414頁に及ぶ。市河三喜はHarold E. Palmerの名著The Grammar of Spoken Englishについて、英文でその長所を指摘しながら、好意的なコメントを書いた。総じて、どの論文も高い水準を保ち、なお、岡倉への敬愛の気持ちを表している。

III. 研究書と外国語教育

 岡倉の目には、研究の価値は実際の教育の現場で生かされて、初めてその価値が評価されると考えたようだ。英語に対する研究では、英語の音声学が極めて必要な分野であると考えたに違いない。当時のヨーロッパでは、ドイツのフィーエトル(Voëtor)を中心とした音声学をベースにして外国語学習を見直す機運が高まっていた。

 ただし、漢字文化をもつ日本人は、ヨーロッパ人が学習する印欧語と較べて、はかり知れない困難があることを感じた岡倉は二つの提案をしている。一つは英語を正しく読めるようにするために発音記号を併記して、綴り字を抵抗なく読めるようにすること、もう一つは英米の子供たちが楽しく読んでいる物語を早急に音読出来るようにすることを目標とした。

 岡倉は音声に関する研究書を主に次の3点に表している。 

◆ 『英語小音声学』研究社、1924。

 岡倉は本書によって、Henry Sweetなどの音声学のイギリスの伝統を継承しており,Phonetic Readingの音読練習用のテキスト(A Primer of Spoken English (Oxford)、A Primer of Spoken English (Oxford) などから提示)を重視する。また、同時にOtto Jespersenの音声学上の功績にも敬意を表し、巻末に引用し入門期の指導には音声学の基本が必要であることを直接・間接に示している。

We want to have some phonetics introduced into our schools, because theory has convinced us, and experiment has proved to us, that by means of this science we can, with decidedly greater certainty and in an essentially easier way, give an absolutely better pronunciation in a much shorter space of time than would be possible without phonetics. O. Jespersen.

  本書の趣旨は、McKerrow-片山両氏による『英語発音学』は必読本であっても、あまりに複雑なので、同書より「一層簡明な書物を本邦の英語界に示したいとの考えに基づく」(同書、はしがき)とのことである。大別すると、母音と子音の二つの範疇に分かれるが、岡倉は「子音」の重要さを認識し、父音と称した。そしてその中味は、断音stops、鼻音nasals、側音lateral consonants、続音continuants、喉頭音、中舌音j、舌尖音r、舌尖前舌音ʃ、ʒ、後舌唇音ʍ、w、唇歯音f、vとした。また、父音の「連音」を重視し、sit⌒down[sidáun]などの例を掲げている。

◆『英語発音学大綱』三省堂、1920。

 本書は単音(父音14章、母音14章)のそれぞれに写真(父音14章、母音14章)に口形図をそれぞれ正面図、側面図のほか、レントゲン写真を活用した「口形縦断面」によって、音声の実態を把握しやすいように試みている。なお、参考文献ではD. Jones:Pronunciation of English (Cambridge)、Phonetic Readings in English (Cambridge)の2点をあげている。そのほかにW. Ripman、H.Sweet、H.E.Palmerなどを掲げている。

◆『発音学講話』寶永館、1903。

 日本語についての音声学であり、岡倉は当時の国語学者と異なり、博言学という立場から日本語の音声面を解明しようとした。「今を貶み、古を尚ぶ国学者」と(p.87)、国学者の癖を指摘すると共に音声学の推進を試みた。口形図を18種類提示し、パラトグラムによって、舌面と口蓋との接触域を具体的に示している。明治の中期に、すでにこのような進んだ研究を具体化した岡倉は日本音声学会の副会長となったのは当然であったと言えよう。

 岡倉は「日本では英語の解釈の方面が非常に重んぜられていて、発音の方面は驚くばかり等閑に附せられているのが今日の英学の状態」(p.9)と指摘し、発音辞典をよく参照するようにと注意している。なお、一般の学生に対しては、「従たるべき知識を重んじて主たるべき人を忘れ、第二に部分的知識を与えふるを重んじて、主たるべき有機的統一的知識を与えることを忘れて居るのである」とも警告した。(『学生に告ぐ』(9ページ))