札幌農学校の教頭を務めたクラーク博士は、「少年よ、大志を抱け(Boys, be ambitious!」の言葉を残して札幌を離れた。1877(明治10)年のことである。その前年の開校式で、彼はこう述べていた。
「東洋諸国民を多年暗雲のように包んでいた階級や因習の暴君の手からのこの驚異すべき解放(筆者注:明治維新を指す)は、教育を受ける諸子の胸中に自から崇高な大志を喚起するでありましょう。」
この「崇高な大志(a lofty ambition)」こそ、彼が生徒たちに最も期待したものであった。そしてさらに言葉を続けて、「健康を保ち、食欲と情欲を抑制し、従順にして勤勉なる習慣を養い、勉学の機会をもつ種々の学科についてはできるかぎりの知識と能力を獲得せよ」と24名の入学生に呼びかけたのである。
クラーク博士はマサチューセッツ州のアマースト大学を卒業したあと、ドイツに留学してゲッチンゲン大学で博士号を取得した化学者である。南北戦争が勃発すると北軍の義勇兵として参加し、勇敢な活躍をした軍人でもあった。その後は、アマーストの地に州立のマサチューセッツ農科大学を誘致する運動に熱心に取り組み、開学以来10年以上にわたってその学長を務めていた。彼自身がパイオニア精神の具現者だったといえる。
日本政府としては最低2年間は札幌に留まってくれることを期待したが、現職の学長が何年間も職を離れることはむずかしい。そこでクラークは「自分なら1年間で2年分の仕事はできる」と言って、1年限りという条件で札幌行きを引き受けたのである。
妻を故郷に置いて単身赴任した50歳のクラークは、自分の時間のすべてを費やして生徒たちの教育に打ち込んだ。授業や公務を離れても、ある時は生徒たちと泥まみれになって行動を共にし、またある時は共に熱く語り合った。土曜の夜にはクラーク邸に生徒たちが集まり、当時はめずらしかった蜜柑を食べながら語らい、博士の経験に基づいた話に耳を傾けたりした。
彼は北海道開拓の行政官を養成するためには、狭い範囲の農業技術だけでなく幅広い分野の科目を教える必要があると考え、自分が学長をしているマサチューセッツ農科大学に倣った教育を実施することにした。その特徴は、幅広い理学を中心とする基礎教育と人文教養的な科目の重視、学理と実習との調和、兵学教育の導入などに表れている。
クラークは徳育を重んじたが、生徒を規則で縛るようなことはしなかった。開拓使があらかじめ用意した校則は22か条にもわたっていたが、彼はこまごました規則で生徒たちをしばっては人間をつくることはできないとして、これを退け、「ビー・ジェントルマン(紳士たれ)」の一語で足りると言って、生徒自身の自覚と責任を求める方針をとった。結局、農学校の校規の中で生徒に要求したのは、「毎日少なくとも4時間以上の予習復習をすること」という1項目だけであった。
その彼が開拓使長官の黒田清隆を説得して実現にこぎつけたのが、キリスト教に基づいた学生の訓育であった。クラークは敬虔なキリスト教徒ではあったが、宣教師ではなかったので、自ら布教することはなく、もっぱら聖書を読むことを通じて、生徒たちをキリスト教の世界に導き入れた。だが退任の日が近づいてくると、あとのことが気になる。そこで彼は、自分が去ったあとも生徒たちがイエスの信徒として信仰心を持ち続けられるようにと、「イエスを信ずる者の誓約」という一文を作成し、自ら署名して生徒たちにも署名を求めることにした。
「イエスを信ずる者の誓約」には、第一期生として残った16名の生徒全員が署名した。クラーク博士の人柄に完全に心酔した彼らは、その後、函館のメソジスト派教会の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受け、クラークが去ったあとも全身全霊で勉学に打ち込んだ。こうしてキリスト教に基づく人格形成を重視するクラーク精神は、札幌農学校の第一期生にしっかりと継承され、さらに新渡戸稲造、内村鑑三らの第二期生にも伝わっていく。
偉大なるかな、クラーク博士の感化力。そのことを考えるとき、教師の資格として専門分野の知識や研究業績のみを要求しすぎる近年の風潮には疑問を抱かざるをえない。重要なのは、若い人を導き育てようとする熱い情熱と、自らの人格の陶冶を目指す高い志である。
(草原克豪)
■参考文献
草原克豪『新渡戸稲造1862-1933』(藤原書店)