岡倉由三郎先生 音声学と英語教育に道を開いた明治の草分け(1)生い立ち
(島岡丘 筑波大学名誉教授シニアプロフェッサー)

「岡倉由三郎」を聞いたことがないという方のために、最初に明らかにしておきたい。岡倉先生は明治元年生まれで昭和10年頃まで語学・文学の面で活動された。例えば、先生は日本で初めてNHKラヂオ英語講座(初等科)を担当された方で、絶妙なユーモァいっぱいの当を得た説明などで、とても評判がよかった。 (先生のお声はNHKアーカイブスで再生可能) そのほか、学問的には幅広い立場から、日本語学、日本語文法など、理論的研究の先導的役割を果たされたほか、『研究社英和大辞典』や『研究社英米文学叢書』などの編集主幹、また、英語の教科書として、Globe English Readersなど日本の英語出版界の実践面においても先見性を発揮された。

 岡倉家はもともと福井藩の家柄である。家業は生糸業を行っていた。当時、国内では福井藩を含め、江戸幕府の指令で鎖国政策のために「脱藩」は禁止されていた。しかし、当時の業界としては、福井藩に留まっていれば生糸業の将来性はないことは明らかであった。日本はまさに開国をめざす黎明期を迎えていた。福井藩主の意向も海外の諸事情を研究させ、欧米の文化に触れさせるべきだという切迫感があり、まず岡倉家を港に近い横浜の本町に転居させ、生糸貿易をさらに奨励しようということになった。

 地の利を得た岡倉家では海外と取引する貿易商の出入りも増え、中には岡倉家に常駐する外国からの商人もいた。そのような賑やかな家庭環境になっていたとき、岡倉家に第三男として由三郎が生まれたのである。時に慶応4年(明治元年) 2月22日のことだった。

 由三郎は生まれながら体が弱かったので、まわりの大人に大事に育てられた。ご母堂はとても優しく育てられ、また、特に乳母(ばあや)のおせいは、常に付き添い保育の責任をよく果たした。健康で元気旺盛なおせいばあやは健康な乳を与えた。また当時、「神医」と呼ばれたヘボン医師 ( Dr. James Curtis Hepburn、1815~1911) の力によって、徐々に健康体になった。

「三つ子の魂 百まで」と世に言うが、由三郎はまわりの人々から溢れんばかりの愛情に包まれ、注意深く育てあげられた。その甲斐もあって、大きくなっても、人の親切心を忘れることはなかった。人を慈しみ、人の為に尽くす温かい仏心を常に持っていた。

 由三郎は幼少の頃、おせいばあやの背中で過ごすことが多かったが、家庭のなかでも英語は耳に入っていた。由三郎が3、4歳の頃、6歳年上の覚三氏 (岡倉天心) が横浜居留地の宣教師John Ballagh氏の英学塾に通っていたとき、ばあやに背負われて同行した。授業中、待たされている2、3時間の間、「今日は英語を幾つ覚えた」と、 得意げにまわりの人に言われたそうである。

 その頃、覚三氏の兄、長男の港一郎氏が16歳にして急死した。身内の者の死はとかく悲しいものであるが、この悲劇は、由三郎の幼な心に非常なショックを与えた。

 明治7、8年頃、有馬小学校 (現在の日本橋蛎殻町) に入学したが、体が弱かったため、卒業したかどうかは不明である。明治8年頃、浜町にあった漢学塾に通っていたことがあった。そして、明治10年に外国語学校を受験し合格した。蛎殻町の住まいから徒歩で、二人の年長の親戚と一緒に通った。男の子が3人揃って通学する姿はよく目撃された。

 学校ではドイツ語を学んだが、体が頑健でなく帰宅するとぐったりするのを見て、父上は由三郎の健康を気遣われ、中途退学させることになった。そこで近くの茅場町にある和漢塾に通わせたのである。

 明治15年のある日、父上に急に呼ばれ将来の進む道について尋ねた。「由三郎、お前の将来の進みたい道は何か、学問の世界か、それとも実業に就くつもりか」 由三郎は少しも躊躇することなく、「将来は学問をもって身を立てようと思います」と、はっきり父上に伝えたそうである。

 その後、由三郎は共立学校 (現在の開成高校) に進学した。教員スタッフには、神田乃武や高橋是清、その他、当時一流の英学関係の著名人がいて、英学について直接指導を受けた。そればかりではなく、築地に開かれたイギリス人の女性教師、Catherine Summers女史のクラス34名中の一人として入学した。由三郎はこのとき、すでに寝床で読まれた借用本、Harriet Elizabeth Beecher Stoweの著、Uncle Tom’s Cabin (1851) を通読でき、ほぼ了解できたそうであり、Summers先生からも歓迎された。

 明治18年高等商業学校の予科に入学したが、由三郎の関心は経済学よりはむしろ言葉の研究であった。そこで正式に退学し、明治20年、帝国大学文科大学専科に編入した。当時の言語学関係のスタッフにはEastlake, Chamberlain, James Main Dixonなどの博言学の専攻であった。当時は言語学とは言わず、博言学と呼ばれていたのである。また、他の教科では国語・漢文、フランス語、ドイツ語、朝鮮語、アイヌ語、琉球語などを学んだ。英学では、George Eliot作のSilas Marnerや、William Shakespeare作のAs you Like it , Macbethなどを習った。

 明治23年には必要単位を取得し、高等商科大学を卒業した。それと同時に、由三郎の研究・教育活動が始まった。由三郎は教育も研究もどちらも大切にした。よく分からない学生がいると、喩え話を使ってより分かるように丁寧に教えたそうである。その親切な指導によって学生たちの間では評判が高まっていった。大学本科の卒業の年、8月には「私立中学校明治会」の夏期講習会の国語科担任講師を勤めた。また同年12月『日本語学一斑』巻一を公にした。翌年はさらに『日本新文典』を出版した。こうして、由三郎は英語科よりはむしろ国語科の教員としてスタートしたのである。

 ほどなく、由三郎は明治29年当時の朝鮮Seoul大学の日本語学校校長として赴任、 2年後、鹿児島高等中学造士館教授となり、大正14年(1925)まで在職した。その間、外国語学校や立教大学にも出向し、明治42年から没年(1936)まで非常勤の職にあった。

 由三郎が担当した講習会などはどこの府県でも評判がよく、東京高等師範学校校長の加納治五郎の耳にも届いた。明治29年9月に加納の招きで、東京高等師範学校の国語科・英語科担任講師として赴任した。そして由三郎は、明治30年2月に東京高等師範学校教授に任じられた。その時わずか30歳であった。

注:伝記は村岡博氏及び、福原麟太郎氏がお書きになったものを主に参照させていただいた。謝意を申し上げる。