[異文化交流の開拓者たち] 第14回「日本の近代教育制度」

 明治政府は西洋の先進国から多くの専門家を招いて近代化を急いだ。彼らはお雇い外国人と呼ばれた。その数は、1900(明治33)年までに1万人にのぼる。うちイギリス人が約4割強を占め、次いでフランス人、ドイツ人、アメリカ人となっているが、1889(明治22)年まで、すなわち明治前半期だけをみれば、イギリス人が多いことには変わりないが、それに次いで多いのはアメリカ人である。アメリカ人専門家は教育者として活躍した人が圧倒的に多いのが特徴的だ。

 日本の近代教育制度は1872(明治5)年、学制布告が発せられた時からはじまった。当初の計画では全国を8つの大学区に分け、さらに各大学区を32の中学区、各中学区を210の小学区に分けて、全国に大学校8校、中学校256校、小学校53,760校を置くという野心的な構想だった。これは岩倉使節団の外遊中に大隈重信らの留守政府によって実施された改革のひとつで、フランスをモデルにしたとも言われるが、実際には欧州各国の制度を参考にしながら日本独自の制度として構想されたようである。

 学制発布の翌年、岩倉使節団に加わって欧米の教育事情を調査した文部省の田中不二磨が帰国し、文部大輔(現在の次官)として学制の実施に当たった。だが学制に基づく学校制度は必ずしも当時の日本各地の実情とは合わないところもあって、頻繁に変更しなければならなかった。

 この時期、二人のアメリカ人が日本の教育改革に特に重要な役割を果たしている。一人は1871(明治4)年に大学南校(後に開成学校を経て東京大学となる)の英語教師として招かれたマリオン・スコット教授である。彼は翌年の学制布告に際して、教員養成のために新たに創設された師範学校(後の高等師範学校、戦後は東京教育大学から現在の筑波大学)の教授となり、アメリカの公教育をモデルにした一斉教育やペスタロッチ主義教授法などの近代的な教育方法を日本に導入した。もう一人は、文部省の学監として1873年(明治6)に来日したデビッド・マレーである。

 田中不二麿はマレーの協力を得て学制の実施に努めるかたわら、その改善を図るため、1876(明治9)年にはアメリカ独立百年を記念したフィラデルフィア万国博覧会の視察を兼ねて再度渡米してアメリカ各州の教育行政の調査を行い、1879(明治12)年、学制に代わる新しい教育令を立案した。教育令はアメリカの公教育制度を参考にしたもので、それまでの中央集権的で画一的な性格を改めて、地方の実情に即した制度を目指すものだった。そのため自由教育令と呼ばれる。

 ところが、この教育令に対しては儒教的徳育を重視する元田永孚らが反対し、また地方にかなりの裁量権をもたせたことから、就学率が低下するなどの問題も生じた。そのため、翌年、国家の統制を強めながら地方の実情に沿った教育の実施を目指す改正教育令を公布することになり、さらに「修身」が教科の中心に置かれることになった。こうした紆余曲折を経ながら、1886(明治19)年、初代文部大臣森有礼の手によって明治の近代的教育制度が確立するのである。

 こうして日本の教育制度は、基本的には高度の知識技術は英独仏から取り入れる一方、万人のための普通教育については、当初はアメリカを模範とし、多くのアメリカ人教師の協力を得ながら作り上げられたのである。

 なぜアメリカを模範としたのか。その理由は、当時のアメリカは平等社会であり、飛びぬけて優れた知識人もいないが、無学の者も少ないのに対し、ヨーロッパは階級社会であり、高い学問水準を誇る一方、無学の者も多かったからだ。その点ではヨーロッパよりもアメリカのほうが日本と似ていることから、アメリカの教育制度のほうが日本の実情に合っていると考えられたのだ。このことを見抜いた当時の指導者の観察眼の鋭さには驚かされる。

 アメリカの宗教団体も日本の教育振興に重要な役割を果たした。日本には多くの宣教師が来日して私立のミッションスクールが開かれたが、そのほとんどがアメリカ人によるものであった。それだけではない。新島襄が同志社英学校を創設したときも、その資金はアメリカン・ボードと呼ばれるニューイングランドに本拠をおく伝統的な組合派協会の善意に頼ったし、津田梅子が女子のための最初の高等教育機関として女子英学塾を創設したのもフィラデルフィア・クエーカーの善意によるものであった。

(草原克豪)

■参考文献
文部省『学制百年史』
梅渓昇『お雇い外国人』(講談社学術文庫)