[異文化交流の開拓者たち] 第10回「西洋文明を輸入した啓蒙思想家:福沢諭吉」

 幕末から明治にかけて日本に西洋文明を紹介したのは一万円札でもお馴染の福沢諭吉である。はじめ蘭学を学んでいた福沢は、横浜の外人居住地でもっぱら英語が用いられていることに刺激されて英語の勉強を始め、25歳の1860年、咸臨丸に乗ってサンフランシスコを往復してはじめて西洋を体験した。1862年には遣欧使節団に同行して1年間ヨーロッパの各国を歴訪し、1867年には幕府の軍艦受取委員会随員として再びアメリカに渡って、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCを訪れている。その間に幕府の役人として洋書の翻訳に携わりながら、『西洋事情』10巻(1866~70年)を刊行したのである。

『西洋事情』は彼が3回の洋行で見聞した西洋の近代的な制度や技術などを国内に紹介したもので、その内容は、西洋の政治や議会など国の基本となる仕組みを始め、税制、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス灯など、極めて多岐にわたっている。

 たとえば政治については、君主制、貴族制、共和制の三種類の政体があり、イギリスではそれらを組み合わせていることや、文明国では法の下で自由が保障されていること、人々の宗教には介入しないこと、技術文学を振興していること、学校で人材を教育していること、安定的な政治の下で産業を営んでいること、病院や貧院等によって貧民を救済していることなどが紹介されている。外交については、戦争を防止するために条約を締結し、条約に基づいて大使が相互に派遣されていることも紹介されている。

 当時の日本はこの『西洋事情』を通じて西洋の近代的な制度や技術を知り、それを日本に導入したのである。日本の近代化の父といってもいい。

 福沢は日本の教育の近代化にも重要な貢献をした。慶應義塾を創設しただけではない。彼の書いた『学問のすゝめ』全17編(1872-76)が大ベストセラーとなり、それが国民の意識を変えたのである。

『学問のすゝめ』といえば、冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといえり」という一節があまりにも有名だ。これは「人はみな平等である」という意味だが、ここで福沢が言いたいのはそのあとに続く文章である。つまり、人は生まれながらにして貴賤や上下の別はないけれども、現実の世の中には貧富の差や身分の上下が存在する。そしてその差異は、学問を身に付けたかどうかによって決まってくる。だから学問、特に読み書きや計算、基本的な道徳などの実学を身に付ける必要がある、ということだ。

 1872(明治5)年8月、文部省は「学制」と称する教育の基本法令を定めた。その基本理念は、「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の子なからしめんことを期す」ことであった。そこには教育を通じて国の近代化を図ろうとした明治政府の強い意気込みが感じられるが、それは半年前に発表された『学問のすゝめ』第一編で述べられた福沢の教育観とも相通じるものがある。

 福沢はそれまでの封建的な身分制度や儒教思想を批判し、国民に近代国家の市民として必要な合理的思考と実学の重要性を説いた。彼の念頭にあったのは、いかにして日本という国の独立を保持するかということだった。

 福沢はかつて遣欧使節団に同行してヨーロッパに向かう途中に立ち寄った香港で、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱う様子を見て強い衝撃を受けたが、それが植民地主義・帝国主義の実態であった。その経験から、国の独立を保つことが最重要の課題だと確信するのだが、国の独立を保つには、「一身独立」、つまり国民一人一人が自立していなければならない。そのために教育が必要になってくると考えたのだ。

 明治の指導者たちは、福沢も含めて武士階級の出身であった。彼らは、強大な武力を背景にアジアへの進出を果たした西洋列強の世界が、「万国公法」(国際法)だけでなく「弱肉強食」の原理が支配する世界であることを見抜いていた。だからこそ、日本国の独立を維持・強化し、西洋列強と早く国際社会で肩を並べられるよう、「富国強兵」と「殖産興業」を最大の国家目標に掲げたのであり、その目標を達成するための手段として、西欧の技術、制度、学問、思想を積極的に導入することにしたのである。

 ただし福沢は、西洋文明を手放しで礼賛する欧化主義者ではなかった。彼にとって近代化とは、単に西洋に倣って文明開化を進めることではなく、国の独立という目的を達成するための手段であった。そのためには合理的には説明しにくい皇室の存在も日本の政治においては必要な要素だとみなしていたし、キリスト教の導入にも批判的だった。西洋の諸制度を導入する場合も、日本の実情に合わせて選択的に取り入れるべきだと考えていた。

 だが、晩年の福沢には西洋化を急ぐ姿勢が強まっていく。そのような時期に発表されたのが時事新報の社説「脱亜論」(1885年)である。坂本多加雄によれば、福沢が急速な文明化すなわち西洋化を説いたのは、朝鮮における金玉均ら開化派のクーデター(甲申政変)が清国の介入によって失敗したことに失望し、日本が近代国家になるには大国である清国と同列に、あるいはそれ以下に見られてはいけないとの強い思いを抱いたからであった。

(草原克豪)

■参考文献
坂本多加雄『新しい福沢諭吉』(講談社現代新書)