[異文化交流の開拓者たち] 第9回「東洋と西洋が出会った日:万延元年の遣米使節」

 1860(万延元)年、徳川幕府は最初の外交使節団をアメリカに派遣した。目的は2年前に締結した日米修好通商条約の批准書を交換するためである。

 総勢77名の遣米使節団を率いるのは、正使新見豊前守正興、副使村垣淡路守範正、目付小栗上野介忠順で、一行はアメリカの軍艦ポーハタン号に乗って横浜を出帆、途中ハワイに2週間近く寄港し、45日後にサンフランシスコに入港した。

 サンフランシスコは、1848年にメキシコ領からアメリカに併合され、ゴールドラッシュに沸くなか1850年に市となったばかりで、アメリカが太平洋国家へと発展していく時代を象徴していた。そこに太平洋の波濤を乗り越えて日本から外交使節がやってきたのである。大歓迎を受けたことは言うまでもない。

 このとき遣米使節団の護衛艦としてサンフランシスコまで航海し、現地にしばらく滞在した後、折り返し日本に帰った小さな船があった。幕府の軍艦咸臨丸である。咸臨丸には提督として軍艦奉行の木村摂津守喜毅、艦長として軍艦操練所教授の勝麟太郎(海舟)が乗り込み、そのほか木村の従者として福沢諭吉、通訳として中浜万次郎など、96人が乗っていた。日本は、長崎海軍伝習所でオランダ人教官から航海術などを教わってからわずか数年で、オランダから購入した軍艦による太平洋横断の処女航海を試み、日米間の往復に成功したのである。

 サンフランシスコに滞在中、福沢と万次郎は書店に立ち寄ってウェブスターの英語辞書を一冊ずつ購入した。現地の新聞はこのときの様子を、「文房具商は来訪者の一人から、ウェブスターの辞典が欲しい、とすばらしい英語で云われたとき、少なからず驚いた。その者はこの辞典の値うちをよく知っているようであった」と伝えた。もちろん万次郎のことである。福沢は後に、「これが日本にウェブストルという字引の輸入の第一番」(『福翁自伝』)と記した。

 さて遣米使節団一行は、その後ポーハタン号でサンフランシスコからパナマまで南下し、鉄道でパナマ地峡を渡り、別の船でワシントンに向かった。ワシントンでは、ホワイトハウスでブキャナン大統領に謁見して批准書を渡し、その後、東海岸を北上してフィラデルフィアやニューヨークでも熱烈な歓迎を受けた。

 羽織袴にちょん髷、腰には大小の二刀を差して威儀を正したサムライの姿は、行く先々でアメリカ人を魅了した。ニューヨークでは、約6千5百人の兵士が警備する中、30台の馬車に乗ってブロードウェーをパレードすることになった。その使節団の姿を一目見ようと大群衆が沿道を埋め尽くしたが、その中には詩人ウォルト・ホイットマンもいた。彼は、東洋と西洋が出会って世界が一つになったことを祝福する詩を書き、『ニューヨーク・タイムス』紙に寄稿した。この詩は後に少し内容を変えて「ブロードウェーの華麗な行列」と改題され、詩集『草の葉』にも収められている。それは次のような書き出しで始まる。

「西の海を越えて遥か日本から渡来した、
頬が日焼けし、刀を二本手挟んだ礼儀正しい使節たち、
無蓋の馬車に身をゆだね、無帽のまま、動ずることなく、
きょうマンハッタンの街頭をゆく。・・・・」

 遣米使節団一行が各地で熱狂的な歓迎を受けている間に、日本では大事件が起きていた。天皇の勅許なしに条約に調印したことを批判する勢力に対して厳しい弾圧を加えていた大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されたのである。事件が起きたのは使節団がサンフランシスコ滞在中のことだったが、彼らがそのニュースに接したのは、ワシントンに着いてからであった。そのような時期にすぐに江戸に戻るわけにはいかない。というわけで、一行は当初の予定を変更してニューヨークまで足を延ばし、さらに大西洋を横断してインド洋回りで帰国することにした。江戸湾品川沖に到着したのはニューヨークを出帆してから4か月半後、1月に日本を離れてから8か月余りという長旅であった。

 その後の日本は、開国派と攘夷派が全国を二分する動乱期を迎える。アメリカはアメリカで、南北戦争の勃発で対アジア外交どころではなくなってしまい、国際舞台から脱落してしまう。その間隙を縫って登場したのがイギリスの総領事オールコックで、彼は幕府に働きかけて、ヨーロッパへの使節団派遣を実現させた。1862(文久2)年と1864(元治元)年の遣欧使節である。しかし、その目的は遣米使節とは異なり、折から高まる攘夷熱に圧されて、条約で約束した開港の延期や閉鎖を求めるためであった。

(草原克豪)

■参考文献
宮永孝『万延元年の遣米使節団』(講談社学術文庫)