[異文化交流の開拓者たち] 第8回「ロシアを見てきた日本人:大黒屋光太夫」

 漂流民と言えば、中浜万次郎や浜田彦蔵より半世紀も前に漂流してロシアに渡り、10年後に帰国した日本人がいた。大黒屋光太夫(1751-1828)である。

 彼は31歳のとき、大量の米、雑貨、木綿商品、小判などを乗せた船の船長として、16名の乗組員とともに伊勢白子(現在の三重県鈴鹿市)から江戸に向かった。ところが駿河湾で大嵐に見舞われ、帆柱を失って漂流してしまう。8か月後にようやく辿りついたのは北大西洋アリューシャン列島の一島だった。そこでそれまで見たこともない人たちに出会うが、言葉がまったく通じない。先住民族のアレウト人だった。彼らに誘われるままについて行くと、小高い丘の上に二人の大男が立っていた。その一人が突然鉄砲を放ったので、日本人は度肝を抜かれた。あとから分かったのだが、彼らはロシア狩猟団の連中で、さっきの鉄砲は歓迎の空砲であった。

 ロシア人が光太夫らを歓迎したのには理由があった。当時のロシアはウラル山脈を越えて東へ東へと版図を広げ、オホーツク海に突き出るカムチャッカ半島に進出して南下し、南千島のアイヌと交易を開始していた。だが、この広大な北方植民地を維持するための食料や衣料などの生活物資が欠乏していた。この問題を解決するには日本との交易しかない。そのためロシアは以前から日本語の通訳養成を計画し、日本人漂流者を保護しては日本語教師の職につけてきた。だがその漂流者もいまはもう死に絶えてしまい、新しい日本語教師が必要になっていた。そのことを狩猟団の連中も知っていたのだ。

 光太夫らは一日も早くこの島を脱出して日本に帰りたかった。そのためにはひとまずカムチャッカ半島に渡って政府の許可を得る必要がある。だが待ちに待ったロシアの船が到着して喜んだのもつかの間、その船は岩礁で大破してしまった。次の船が来る予定はない。そこで彼らは、光太夫らも一緒になって、自分たちで新しい船を作ろうと決心し、この小さな島で寒さや飢えと闘いながら4年間の歳月を過ごすのである。その間に仲間11人が病に倒れた。

 その後ようやくカムチャッカ半島に渡った光太夫らは、そこからまた船でシベリアの都市オホーツクに渡り、さらに帰国嘆願書を提出するためにバイカル湖に近い都市イルクーツクに向かった。そこで手厚いもてなしを受けるのだが、総督府の役人たちは政府の方針に沿って、何とかして光太夫らを帰化させて日本語学校の教師にさせようとする。

 光太夫のほうは土地の名士や豪商たちとの付合いが生まれ、日本の話をしては喜ばれ、尺八の演奏も喝采を博して、現地での評判も高くなった。しかしそれでも望郷の念は断ちがたく、帰国願いを繰り返していた。そんな時ある人から著名な博物学者でペテルブルグ科学アカデミー会員でもあるキリール・ラクスマンという人物に紹介してもらう。そしてラクスマン一家との親交を深めた光太夫は、彼の尽力で帝都ペテルブルクまで出かけて女王エカテリーナ二世の謁見を許されるのである。

 謁見に備えて光太夫は日本から持参した持ち物を携えた。その中には船長の正装一式、伊勢神宮の宮居、阿弥陀如来の画像、小判や銅銭、尺八、浄瑠璃の本などが含まれていた。帝都ペテルブルグは壮麗な宮殿や寺院、多数の官庁が立ち並び、その景観に光太夫は驚嘆した。そして謁見の日、事前のリハーサルで面倒な礼儀作法を覚え込んだ光太夫は、無事に拝礼の儀式を終え、ひたすら故国に帰りたいとの思いを伝えた。女帝も日本への関心が強かったのであろう。その後も光太夫は女帝のお召しを受け、尋ねられるままに日本の話をした。破格の厚遇であった。

 その頃、女帝のもとには二つの上申書が届いていた。一つはイルクーツク総督の意向を反映した豪商たちからのもので、日本人漂民はあくまでも帰化させ、場合によっては通訳に用いるという内容だった。もう一つはラクスマンからのもので、日本との貿易を樹立するためには日本人漂民の送還が不可欠という内容である。女帝はこれらを慎重に検討した結果、最終的にラクスマンの言うように光太夫らの帰国を許可し、光太夫には別離の記念品として宝石箱のような美しい嗅ぎタバコ入れなどを与えた。

 こうしてラクスマンの次男アダムを使節とし光太夫ら3名の日本人を乗せたロシア船が蝦夷(北海道)へと向かい、根室を経由して箱館に上陸、松前に到着した。漂流からすでに10年、イルクーツクまで6名いた仲間も1名は病死、2名はキリスト教に帰依して日本語教師として残り、帰国したのは3名だった。そのうち1名は壊血病のため根室で息を引き取った。

 松前で幕府の高官と数回にわたり会談を重ねたアダム・ラクスマンは、最後の会談で長崎入港許可証(信牌)を受け取って帰路に就いた。他方、光太夫と磯吉は江戸に向かい、つい最近まで老中首座だった松平定信のはからいで将軍徳川家斉の上覧の栄に浴する。光太夫は将軍の前で蘭学者の桂川甫周の質問に応える形でロシアでの見聞を報告した。後に桂川は二人の綿密な聞取り作業を行って全十巻本『北槎聞略』を完成させる。北槎とは「北のいかだ」という意味である。これは幕府の取調べ記録『北槎異聞』と並んで日本で最初の優れたロシア紹介の書物となった。

 それから11年後の1804(文化元)年、長崎入港許可証を持参した正規の使節ニコライ・レザノフがロシア皇帝アレクサンドル一世の親書を携えて長崎に来航した。だが時の幕府首脳は通商を拒絶し、レザノフは半年も待たされたあげく親書を突き返され、やむなく長崎を去ってカムチャッカに向かう。その後、彼の部下が樺太と択捉島の日本人部落を襲撃し、北海道北部の日本海上に浮かぶ利尻・礼文両島沖の日本船を焼いてしまうという事件が起きた。世に言う「文化の露寇」である。

 それからさらに半世紀、ペリーの浦賀沖来航とほとんど時を同じくして、プチャーチンの率いるロシア艦隊が長崎に来航して日本に開国を迫った。翌年、日米和親条約が締結されると、日露間でも和親条約が締結された。これにより日本は、下田、箱館のほか長崎を加えた3港を開港し、国境については、択捉島以南つまり現在の北方四島は日本領とし、樺太は両国人雑居の地として境界を定めないこととされた。

(草原克豪)

■参考文献
山下恒夫『大黒屋光太夫―帝政ロシア漂流の物語』(岩波新書)
吉村昭『大黒屋光太夫』(上・下)(新潮社)