[異文化交流の開拓者たち] 第7回「二人の漂流民:中浜万次郎と浜田彦蔵」

 ペリーが来航した際に通訳を務めたのはオランダ通詞であった。彼らは英語も少しは学んでいたが、実用レベルからは程遠かった。当時まともな英語を話せる日本人といえば中浜万次郎(1827-1898)だけであった。

 万次郎は四国の土佐清水の出身で、1841年、14歳のときに漁師仲間と漁に出て嵐に遭って遭難し、伊豆諸島の鳥島に漂着した。幸い5か月後にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、仲間たちはハワイで降ろされたが、最年少の万次郎は船長のホイットフィールドに気に入られてそのまま一緒に航海を続け、アメリカ東海岸に渡った。そこでホイットフィールドの養子となってマサチューセッツ州フェアヘーブンで小学校教育を終え、バートレット航海専門学校で数学、測量、航海術、造船技術などを学んで首席で卒業したのである。

 卒業後の万次郎はしばらく捕鯨船に乗って活躍していたが、1850年、ついに日本に帰る決心をし、途中ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコで金鉱採掘の仕事をしてお金を貯め、日本に向かった。だが琉球に上陸した万次郎は直ちに薩摩藩に送られ、さらに長崎奉行所でも取り調べを受けて、踏み絵でキリスト教徒でないことを証明しなければならなかった。こうして、ようやく帰郷が許され、1852年、漂流から11年ぶりに故郷土佐清水の土を踏むことができた。

 土佐藩では藩校の教授に任命されたが、その後ペリーの黒船来航への対応に迫られた幕府から江戸に呼び出され、老中阿部正弘の求めに応じてアメリカがどんな国であるかを紹介した。さらに旗本の身分まで与えられて、造船、測量、航海術の指導や、英語の教授、通訳や翻訳など、精力的に働いた。

 ペリーとの交渉に際しても、万次郎を通訳に使うことが検討された。だが彼は日本語の書き言葉が十分でないうえ、アメリカ側につくのではないかと疑われて、通訳を下ろされてしまい、隣室で待機することになった。その背景には、もともと武士の身分でもないのにアメリカ人とも対等に付き合う万次郎へのやっかみや、自分たちの立場を失いたくないオランダ通詞たちの不満などがあったともいわれる。それでも万次郎は、陰で日米和親条約の締結に向けてさまざまな助言をするなど貴重な役割を果たした。

 その後も、築地に軍艦操練所ができるとその教授として測量術や航海術を教え、1860年には遣米使節の護衛艦咸臨丸に通訳主任として乗船し、明治維新後には開成学校(のちの東京大学)の英語教授を務めている。

 中浜万次郎より10年遅れて、同じような漂流経験をし、同じようにアメリカで教育を受けて英語を習得したもう一人の日本人がいた。浜田彦蔵(1837-1897)である。播磨国(現兵庫県)出身の彦蔵は、13歳のとき船で江戸見物に旅立ち、折り返し故郷への帰路、紀伊半島沖で暴風にあって難破し、仲間たちと2か月間太平洋を漂流した。その後、本州から1800キロも離れた南鳥島付近でアメリカの商船に発見されて救助され、そのまま西海岸のサンフランシスコに入港した。1851年2月のことである。

 当時のアメリカ政府は日本を開国させるために、彦蔵らに日本への帰還を命じ、これを受けて彦蔵らは香港まで戻った。そこからはペリーの率いる東インド艦隊の船で日本に帰国することになっていた。ところが大西洋回りのペリー艦隊の到着が大幅に遅れ、それを待つ間に彦蔵ら3名は一行の世話人から「アメリカで勉強しないか」と誘われて再びサンフランシスコに戻るのである。こうして彦蔵は税関長のサンダースに引き取られ、東海岸に移動してボルチモアのミッションスクールで学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けた。

 1858年に日米修好通商条約が結ばれると、彦蔵にも望郷の念が強まった。だが、キリシタンの身ではそのまま帰国することはできない。そこで彼は帰化してアメリカ国籍を取得し、翌1859年、駐日公使となったハリスに神奈川領事館通訳として、9年ぶりの帰国を果たした。翌年またアメリカに戻ったが、このときには旧知の国務長官シュワードに案内されてリンカーン大統領にも会っている。その後、再び神奈川領事館通訳として日本に戻り、1863年には『漂流記』を著して、その中で「米国共和政治の由来」についても紹介した。それほどのアメリカ通であった。翌1864年には、英字新聞を日本語に訳した「海外新聞」を発刊し、これが日本で最初の日本語新聞となった。リンカーン暗殺の詳報を伝えたのもこの新聞である。維新後は大阪造幣局の創設に尽くしたり、大蔵省に勤務したり、茶の輸出を手掛けたりもしている。死後は、日本人に戻ることができなかったため、東京青山の外国人墓地に葬られた。

 中浜万次郎と浜田彦蔵、この二人の漂流民に共通するのは、ともに10年に及ぶアメリカ生活で身に付けた知識と英語力で幕末日本の開国とアメリカ理解に貴重な貢献をしたことだった。

(草原克豪)

■参考文献
宮永孝『万延元年の遣米使節団』(講談社学術文庫)
吉村昭『アメリカ彦蔵』(新潮文庫)
近盛晴嘉『ジョセフ=ヒコ』(吉川弘文館)