[異文化交流の開拓者たち] 第6回「幕末の条約は本当に不平等条約だったのか」

 ペリーが去って2年後の1856年、アメリカ人タウンゼント・ハリスが総領事として下田にやってきた。彼の目的は新たに通商条約を締結することだった。

 幕府ははじめのうちハリスとの交渉を拒絶していた。だが、当時クリミア戦争で勝利を収めたイギリスがその勢いを駆って日本に迫ろうとしていた。このようにアジア情勢が切迫化する中で、阿部正弘に代わって老中首座に就いた堀田正睦はアメリカとの本格的な開国、つまり通商条約の締結へと舵を切った。実際の交渉に当ったのは岩瀬忠震と井上清直という二人の全権で、首席通訳を務めたのは森山栄之助から改名した森山多吉郎である。

 交渉の中でハリスは領事裁判のことを持ち出し、日本側は何の異議もなく同意した。このことと日本の関税自主権を認めなかったことが、明治時代になって不平等条約のシンボルとして非難攻撃の対象となったのである。なぜ日本側は領事裁判権に異議を唱えなかったのか。

 この点に関して、『幕末の外交官 森山栄之助』を著した江越弘人は、「異国人の犯罪は、異国政府が裁くという法制度は、日本古来のやり方であったため、当たり前のこととして見過ごしてしまった」と説明し、「これが日本の常識であった。もし、外国人を日本人が裁き、日本の牢舎へ収容するようなことがあると、汚れた夷荻を日本の国土に入れたと、非難轟々それこそ国内は鼎をひっくり返すような騒ぎになったであろう。当時、誰が担当してもこのような結果になったことは疑いない。つまり、この治外法権の条文を批難することは、幕府を貶め、明治政府を称揚するために意図的に情報操作されたものである」との見方を示している。

 アメリカ側の条文案には、外国人に国内の自由な旅行・居住を認めるという条項も含まれていた。だが日本側はこれだけは認めるわけにはいかなかった。岩瀬忠震は、「外国人が自由に国内を旅行すると人心を刺激し、内乱が起こる恐れがある。それならば、アメリカとの戦争になっても内乱よりもましだ」とまで述べてこの要求を拒否した。これにはハリスが激怒して、交渉は破談寸前にまでいたった。

 翌日、井上清直が非公式にハリスを訪ね、「この条項を認めると内乱が起こるというのは、単なる推測ではなくて確信である」と言って国内の厳しい状況を伝え、改めてこの条項に固執しないよう求めている。そしてついにハリスは国内旅行の自由を取り下げることに同意した。

 結果的には、これにより外国人の居住区が狭い範囲に限られたため、治外法権を盾にした外国人の無法行為による弊害は最小限に抑えられることにもなった。

 こうしたアメリカ側の譲歩で条約交渉は大きく進展し、他の課題についても双方が妥協し合って条約案が合意された。だが、いざ調印という段階になって堀田正睦は孝明天皇の勅許を得られなかった。すでに諸大名たちの了承も得られていたにもかかわらず、である。

 折から将軍の後継者をめぐって、13歳の紀州藩主徳川慶福(家定)を擁立する保守的な南紀派と、前水戸藩主徳川斉昭の第七子で聡明の誉れ高い22歳の一橋慶喜を擁立する一橋派と呼ばれる改革派大名たちが対立していた。その中で新たに大老に就任した南紀派の井伊直弼は、勅許が得られないまま条約に調印し、その直後、次代将軍が慶福(家定)に決定したことを発表した。するとこれに反発した一橋派が「違勅」調印を批判して井伊を罷免させようとしたため、井伊大老はこれに厳しい弾圧を加え(安政の大獄)、その恨みをかって桜田門外で暗殺されてしまう。その後も一連の外国人襲撃事件が頻発することになった。外国人の自由な国内移動を認めると内乱を引き起こす恐れがあるというのは、決して杞憂でも脅しでもなかったのである。

 もう一方の関税問題は、日本側に関税率は自国で自由に定められるという認識がなかったために生じたようだ。それでも当初は、輸出税は一律5%、輸入税は1類(金銀、居留民の生活必需品)無税、2類(舶来用品・食料・石炭)5%、3類(酒類)35%、4類(その他)20%で、日本側にとって必ずしも不利益とは言えず、神奈川開港5年後には日本側から税率引き上げの協議を要求できることにもなっていたので、特に問題があるとは考えられていなかった。それが1866(慶応2)年になって幕府が弱体化したところで、列強艦隊の圧力の下で中国と同様の5%という屈辱的な税率を押し付けられたうえ、それまでの従価税から従量税方式に改められた。そのため幕末混乱期のインフレで事実上の関税免除に近い状態になってしまい、このことから大きな問題となったのである。

 こうした状況を考えると、当初の日米修好通商条約は決して相手側から一方的に押し付けられたものではなかった。仮に岩瀬、井上、ハリス以外の人物が交渉に当ったとすれば、もっと日本側に不利で、不公平で、片務的な条約が出来上がっていたに違いない。日米間でこのような修好通商条約を締結したことにより、幕府はもっとも警戒していたイギリスとの条約交渉においても、日本側の考えていたような内容でまとめることができたのである。

(草原克豪)

■参考文献
加藤祐三『幕末外交と開国』(講談社学術文庫)