1853(嘉永6)年、マシュー・ペリー(1794-1858)が率いるアメリカの東インド艦隊が江戸湾にやって来た。
このとき4隻の巨大な黒船の出現に幕府役人や市民が慌てふためく様子を揶揄したのが、「泰平の眠りをさます上喜撰(銘茶のブランドで、蒸気船とかけた)たった四杯で夜も眠れず」という狂歌である。
なぜアメリカは日本の開国を求めてきたのか。それは捕鯨船の水や食料の補給と避難・修繕のための基地が欲しかったからであり、また、対アジア貿易の市場拡大を図るための中継基地としても活用したかったからであった。ペリー以前にも日本にやってきた外国人は大勢いた。アメリカ人も少なくなかった。だが幕府は1825年の異国船打払令に基づいて、日本の沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃して追い返していたのである。
メキシコ戦争で功績を挙げた誇り高いペリーは、他の国々に先駆けて日本を開国させることを自分の使命と考えていた。そのため彼は、長崎ではなく江戸湾に入港して、直接幕府を相手に交渉することにこだわった。それだけでなく、軍人の家庭に育った彼は、交渉において必要があれば武力に訴えることも辞さない構えで、そのためアメリカ出港に先立って政府に武力行使の許可を求めようとした。しかし、アメリカ政府はそれを認めず、日本との友好親善を図りたいとするフィルモア大統領の親書をペリーに持たせることにしたのである。
それでもペリーは測量船を江戸湾内の羽田沖1.3キロメートルまで侵入させるなど、圧倒的に優勢な軍事力を背景にした強硬外交を展開した。さいわいペリーは翌年の2度目の来航で日本を平和的に開国させることに成功したが、新渡戸稲造は『日米関係史』の中で、力ずくで日本を開国させようと考えたペリーよりも、彼の武力行使を禁じたアメリカ政府の態度のほうを高く評価している。
ペリーにフィルモア大統領の親書を持たせたアメリカ政府の態度には、1837年にモリソン号で来航したマカオのアメリカ人商人キング氏の態度とも相通じるものがある。キングは、アメリカの西海岸で難破してマカオに送られてきた3人を含む7人の日本人漂流民を本国に帰すために日本に向かうことにした。その際、多くの人の反対を押し切って、あえて武装せず、配布用のキリスト教文書も持参しないことにし、贈り物などを持参のうえで日本との友好関係を築きたいと願い出たのだ。だが、江戸湾に入ったところでモリソン号は幕府の砲撃を受けてしまう。キングは結局その目的を達することができないまま引き返すことになった。
新渡戸はこのように平和的な態度で日本の開国を要求してきたアメリカを高く評価していた。モリソン号事件におけるようなアメリカの態度が、両国間の相互理解と信頼につながっていくと考えたのである。
新渡戸は初代総領事を務めたタウンゼント・ハリス(1804-1878)の果たした役割も高く評価している。ハリスは、武力を背景に恫喝外交を行ったペリーとは対照的なやり方で日米の友好親善に多大の貢献をしたからである。だがそれにもかかわらず、彼には正当な評価が与えられていない。そのことに新渡戸は義憤を覚えた。
彼の見るところ、日本の鎖国の壁が、ヨーロッパ列国ではなく、領土的野心をもたないアメリカによって破られたこと、さらにはハリスのような誠実で忍耐強い親日家が初代総領事として来日したことは、日本にとって幸運なことであった。事実、ペリー来日を契機とする日本の開国以後の半世紀間は、日米関係は次のような事例にも見られるように極めて友好的であった。
1864年、長州藩が前年に下関海峡を通過するアメリカ船に発砲した報復として4カ国艦隊の砲撃を受けた事件のあと、日本は300万ドルの賠償を支払うことになったが、そのうちアメリカの取り分は80万ドルであった。だが実際の被害額を調べたところ2万ドルにも満たないことが明らかになり、アメリカの教育家たちが動いてこれを日本に返還しようという運動を起こした。1883(明治16)年になってそれが実現し、還されたお金は横浜港の防波堤を整備するために使われた。
不平等条約の改正交渉においても、改正を訴える日本の立場を真っ先に支持してくれたのはアメリカであった。それに対して、最後までひとり反対を唱えて改正を先送りさせたのは、長らくイギリスの駐日公使を務めたパークスであった。
(草原克豪)
■参考文献
新渡戸稲造『日米関係史』(新渡戸全集第17巻、教文館)