名著『武士道』を著した新渡戸稲造(1862-1933)は、20歳のときに「太平洋の橋」を志した。札幌農学校を卒業したあと東京大学に入学するのだが、その際、面接官から「大学に入って何を勉強したいか」と問われて「農政学と英文学をやりたい」と答えると、今度は「英文学をやってどうするのか」と問われ、「太平洋の橋になりたい」と答えたのである。すると面接官は「何のことかわからない」と言う。そこで彼は、「西洋の文化を日本に伝え、日本の文化を西洋に伝える媒酌人の役を務めたい」と説明した。これが「太平洋の橋」に込められた意味である。
こうして東京大学に入学した新渡戸ではあったが、彼はそこでの授業に失望してしまい、1年で退学してしまう。そしてアメリカに私費留学し、さらにドイツで最先端の学問を身につけたあと、アメリカ人女性メリー・エルキントンと結婚して帰国し、「太平洋の橋」としての活動を開始するのである。
新渡戸の活動で特に注目したいのは、西洋の思想や文化を日本国内に紹介しただけでなく、むしろそれ以上に日本の姿を世界に発信したことだ。中でも『武士道』は世界中で読まれた。そのほかにも、第一次大戦後ジュネーブに国際連盟が創設されるとその初代事務次長に就任し、連盟のスポークスマンとして活躍するとともに、西洋社会に東洋の叡智を持ちこむなど、東西の異文化理解に大きく貢献した。新渡戸こそは戦前の日本を代表する国際的教養人であった。
時代は下って、戦後の日本で国際文化交流に重要な役割を演じた人の一人に松本重治(1899-1989)がいる。松本は1920年代にアメリカに留学し、日米関係において重要なのは中国問題であると確信して帰国、その後は日中関係の改善にも努力した国際ジャーナリストである。『上海時代』、『昭和史への一証言』といった貴重な回顧録も遺している。戦後は、諸外国との学術文化面での交流が必要なことを痛感し、駐米大使、国連大使、あるいは外務大臣などへの就任要請をすべて断って、六本木の国際文化会館を設立するために奔走した。そして会館の設立後は自らその専務理事さらに理事長として、長きにわたってわが国の学術文化の国際交流推進のために貢献した。まさに戦後版の「太平洋の橋」である。
松本重治の人間的なスケールの大きさ、視野の広さ、幅広い交友関係、多彩な活躍ぶりは、新渡戸稲造を彷彿させるものがある。それもそのはず、松本は若いころ、国際連盟事務次長時代の新渡戸をジュネーブに訪ねて教えを受け、新渡戸が帰国して太平洋問題調査会理事長として京都と上海での太平洋会議に出席したときは、その秘書として会議に参加し、国際会議での議論の仕方や運営の仕方を学んでいた。
松本は新渡戸を師と仰ぐ政治学者、高木八尺(1889-1984)の弟子だから、新渡戸から見れば孫弟子ということになる。新渡戸はこの37歳年下の孫弟子をかわいがり、しばしば小日向台町の自宅にも招いた。ランチのときもディナーのときもあったが、松本はときには定刻少し前に来るように言われたり、あるいは客が帰ってから「まあ、おかけよ」と坐を勧められたりして、新渡戸のユーモアたっぷりの話を聞き、いろいろなことを教わったという。
数多くの教えの中には、「英語は君自身の教養のためのものだけではない。英語を駆使して、日本を世界に理解させるために努力し給え」というアドバイスもあった。松本はそれを肝に銘じ、戦後になって国際文化会館の設立・運営という大仕事に取り組んだ。そのかたわら、戦後いち早く「話せる英語」の大切さを主張して、英語教育協議会(ELEC)も立ち上げた。多忙な松本ははじめのうちは財界の親しい友人たちにその運営を委ねていたが、彼らが他界してしまうと自ら理事長を引き受け、亡くなるまでELECの充実発展に尽くし、日本の英語教育の向上に貢献した。今日のELECがあるのはひとえに松本重治のおかげである。
(草原克豪)
■参考文献
草原克豪『新渡戸稲造1862-1933』(藤原書店)
松本重治「新渡戸先生」『新渡戸稲造全集月報15』(教文館)